新たな敬意

投稿者: | 2021-03-27

 小さなころは大人って凄いな~と思っていた。私はもしかしたら人に敬意を払いすぎる傾向があるかもしれない。大人を信用し切っていたと言うか、大人はみんな立派な人だと思っていた。ところが自分が20歳になったときにびっくりしたのを覚えている。“大人”ってこんなもんだったのか。自分が描いていた大人像と20歳の自分があまりにもかけ離れていた。20歳に対してのイメージがそれくらいだから、今の私の年齢の大人たちに対しては「近寄りがたい、絶対的な権威」くらいに思っていた。「完全無比」、「間違いをしない」、「従わなければいけない」、そんなような神のごとくの存在だったように思う。

 30歳、40歳と、自分が歳を取っていくにつれて大人への敬意が薄れていったのを覚えている。それは自分との比較。大人らしくない大人の自分への失望が、そのまま“大人”への失望に繋がっていった。「こんな不安定な自分を信用できるわけがない」という感情は自然と他者にも適用された。一体いつになったら自分はちゃんとするんだろう?諦めにも似たそんな問いが、長く脳内の一部を占拠していた。
 誰もが経験する思いなのではないか。大人になれば、歳を取れば、自然と大人になれる。「大人」という言葉の捉え方にも依るが、そんな幻想は誰にでもあるだろう。しかしそれが幻想だったことは、大人になってみないと分からなかった。「大人なんてこんなもんか」。

 聖書を勉強していく中で一つ新しい考え方として私に芽生えたのが、悪い意味で捉えて欲しくないのだが、「自分なんてこんなもんだ」ということだ。「人間なんてそんなもんだ」という諦めだ。諦めというと非常にネガティブな印象になってしまうかもしれない。けれどもたとえどんなに努力を重ねても完全にはなれない。必ずまた過ちを犯してしまうし、失敗するし、失望する。人間なんてそんなもんだ。もう一方で良いことも起きる。理想に近づける場合があるかもしれない。でもまた違う理想が頭をもたげてくる。永遠の繰り返し。果てしない欲望の奴隷。人生なんてそんなもんだ。しかし終わりが見えないこそ希望があるのではないか。「完全」が達成されてしまったら人生終了だ。

 諦めてから出発するのはどうだろう。あまり門出にはふさわしいこと言葉ではないが、「こんなもんだ」から始めてはどうだろうか。大事な時に踏ん張れないし、大切な約束も守れないし、チャンスに弱いし、声も小さいし、言いたいことはっきり言う勇気がないし、勉強もできないし、友達もいないし、足も遅いし…。自分なんてこんなもん。でも“こんな”自分をしっかり受け入れて、他者との比較や未来への理想に惑わされず、ここから一日一日を誠実に生きたらどうだろうか。未来の自分はそうした日々の営みの延長線上の存在だろうし、だからそもそも「大人になれば自然と大人になれる」と予想すること自体が、何かに依存したナンセンスだと思うようになった。経験の浅い自分が経験を重ねた未来の自分の姿を予想するのは、他の何かか、誰かとの比較によってしかできない。比べる必要はないし、比べられない。自分の人生は自分しか生きられないのだから。

 ただ歳をとるだけでは変われない。

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