トマス

投稿者: | 2021-09-28

 「好きな聖書の聖句はどこですか?」という定番の質問がある。キリスト教関係者の中ではよく耳にするやりとりだ。もし「無い」なんて言おうものなら、悲しいとか寂しいとか、あるいは情けないとまで言われかねない。「好きな聖句」と訊かれて、でも私は違和感を覚える。『好き』とは「心に響いた」とか「いつも励まされる」とか「迷ったときに立ち返る言葉」とかという意味だろうか。多分そうなんだろうと思う。ただそういう箇所が自分の好き嫌いで決められるものではないような気がして、質問されたときには少し反発したくなる。小面倒臭いおじさんで申し訳ない。

 「目に見えるものしか信じられない」。私はこの気持ちに心底賛同し、理解できる。実際に目の前で起きていることでなくても、確実な理論や証拠があって存在が実証されていれば信じられる。それが当然で、反対に科学的根拠なくして何が信じられるというのだ。
 この前提に立った時に、「そんな調子でどうやって神さまを信じられるのか」と問われれば、私にはまだ答える力が備わっていない。大いなる矛盾がここにある。この矛盾で埋め尽くされた混沌の中での葛藤が私を苦しめ、今まさにその戦いの真っただ中で抗っているという感じだ。ただこの矛盾の存在を私の心が本当の意味で気づき、ちゃんと感じられるようになってきたことは、もの凄い進歩だと思っている。「矛盾に気づいたことで道が晴れてきた」とは何とも逆説的でまたもや禅問答のような様相だが、向かうべき方向がうっすらと見えてきた感じは、ある。

 イエス様の弟子でトマスという人がいた。イエスが生き返ったことをいつまでも信じなかった人だ。多くの人がそうであるように、私も彼の中に自分を見る。トマスは復活したイエスの手やわき腹に残っているはずの傷を実際に目で見て、直接触れて確かめてみないことには、決して復活を信じないと言い切った。当然だと思う。人のうわさや情報だけで、それまで培ってきた自分の常識や思考を投げ出すことはできない。今の私にとってのキリスト教は、この「投げ出すことができるかどうか」にかかってきている。ただ私がこの時のトマスと状況が違うのは、私には聖書があるということ。

 イエスはトマスに言われた。「見ないのに信じる人は、幸いである」(ヨハネ20:29)。好きな聖句は?と訊かれればこの箇所を言おうかなと思う。教訓めいたセリフではないし、知らない人には「?」マークが立ち並ぶような箇所ではあるので、多くの人に役立つような言葉ではないかもしれない。それに私自身がホントに「好き」かどうかも、どうだろう、ちょっと疑わしい。しかし私にとっては大いなる救いであり、目標であり、間違いなく勇気づけられる言葉だ。
 今こうして書きながら、これを読んでくださる皆さんにどれだけ私の今の気持ちや迷い・葛藤が伝わっているか心配になっている。あまりにも私の内面の細かいことに関してなので、正直伝わらないだろうな~と思いながら書いている。でも書かずにはいられない状況にあることを理解していただきたい。このブログは私の個人的な心の戦いの歴史でもある。

 あぁあ、また堅くなっちゃった

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