神さまの愛

投稿者: | 2021-11-01

 「何でもやってもらって当たり前」という甘ったれた習慣が身にこびり付いている。母親が朝起こしてくれるのも、食事を作ってくれるのも、洗濯をしてくれるのも、爪を切ってくれるのも、全てそれが当たり前。そのことに何の疑問も持つことはなかった。何と怠惰で贅沢な生活。しかもその環境に感謝することすらなかった。今はもう誰かに爪を切ってもらうことはないけれど、潜在的にそのような「やってくれて当たり前」の感覚が心の中に常駐しているように思う。でもそうなってしまったことは、恐らく、私に罪はなかった。

 学校に行けるのが当たり前、授業料や給食費を親が払ってくれるのが当たり前、大学に行くのが当たり前。それが当たり前ではないことに、全く、気付かなかった。恐らく私だけではなく、多くの中間層と言われるある程度の生活水準を維持できている家庭では、同じようなことがまかり通っていると思う。そうやって育ってきてしまって、その“当たり前”に疑問を持ちなさいと言われても、どうだろう、速やかに真剣にその問題に取り組めるだろうか。心からその環境に感謝できるだろうか。内的な動機付けがないと、本当の意味での「気づき」がないと、なかなかできるものではないと思う。

 例えばコロナであったり、天災や事故・事件に巻き込まれたり、或いは親や家族の誰かが亡くなったりという、日常が失われて初めて我々は“当たり前”の有り難さに気付く。「いかに自分が幸せな生活を送ることができているか」を思い知る。そして「自分が決して自分一人の力で生きてこられたわけではない」と立ち止まって考えることができる。そういう意味では、たとえそれが悲しい出来事であったとしても、やはり「世の中に必要がないものは無い」と言えるのかと思う。月並みで恐縮だが。

 しかし私が目指したいと思うことは、そういった外的な要素によってやっと気付くのではなく、何か特別なことがなくても継続した感謝ができること。自分のために尽くしてくれる誰かの行為や気持ちにちゃんと気づいて、心からありがたい、「ありがとう」と思うこと。先生から「親に感謝しなさい」と言われたからするのではなく、真に感謝の言葉をかけられるようになること。そういう人間になれたら、毎日が、人生がちょっと変わっていくんじゃないかと思う。

 コロナのこともあって、特に若い人たちの自死が増えてしまっているそうだ。「いかに自分が愛されているか」、また「愛してくれている人の存在に気付けるか」ということに、希望を見出せない人たちを救うヒントがあると思っている。生きていられることが“当たり前”ではなく、一人一人に与えられた特別な恵みなんだと思えたら、また違った歩みになるのではないか。歳を重ねてなおこうして生きていられるからこそ、そう思えるのかもしれないし、だから若い人に実感してもらうのは難しい作業になると思う。しかし本当にそう思うのならば、伝え続けるべきだと思う。そこを怠れば、それは私の罪になる。

 愛に応えていく道を、歩みたい

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