石の上にも5,6年

投稿者: | 2021-01-04

 35歳の時に映像制作をする会社を立ち上げた。最初は従業員として一人女性を雇っていたが、一年保たずに辞めてもらった。売上が維持できず給料を払い続けられなかった。以来18年間ずっとひとりぼっち、薄氷を踏む思いでこの会社を繋いできた。少しずつ業態を変化させながら、よくまぁここまでやって来られたと思う。今でも安定しているとは言い難く一寸先は真っ暗だ。少なくとももう20年は現役で働きたいと思っている。自分の会社だから存続できていれば可能は可能だ。


 仕事が切れたことは一度も無かった。いつも何かしら仰せつかっていて、でも仕事が遅いのか拘りが強すぎるせいなのか、いちいち編集に時間がかかっていた。一つの仕事にかかっている時間が長すぎたから、切れ目なく仕事が入っていたように見えただけと言えるかもしれない。いずれにしろ売上額は充分ではなかった。「無担保で融資します」という“振り込め詐欺”広告に危うく騙されそうになったが、寸前で嘘に気づき事なきを得たこともあった。政府系金融機関から融資を受けていて、それ以上はどこの銀行からももう借りられない状況だったのでいわゆる“サラ金”から借り入れをしたり、家賃を待ってもらったり、生活を切り詰めたり、何とかしてこの会社を潰さないように必死で頑張った。当時はDVDをコピーする機械を購入できず、家庭用のDVDプレーヤーを使って一枚ずつ実時間でコピーするしか方法が無かったために、家に帰らず事務所で2週間ぶっ続けで作業したこともあった。編集している間も次の仕事を取ってこれるかどうかの不安が募り、精神的・体力的に極限を迎えていた。体は一つしか無い。そしてまた否応なしにサラ金の返済日が近づいてくる。返済するためにまた別のサラ金からお金を引き出すようなやり方を繰り返し、もはや“会社”としての資金繰りの体は成していなかった。自己破産へまっしぐらに進んでいたと思う。「死んで楽になろうか」と真剣に考えていた。


 徐々にではあるが頑張っていると仕事は回ってくるものなのかもしれない。私もペース配分が分かってきたのか、時間をかけるべき場合とそうでない時や、自分が営業に回る時間を作り出す工夫ができるようになる等、少しずつ商売は上向き加減になっていった。テレビ局へ出入りできるようになったのは大きかった。仕事をいただいている部署の別の人が「じゃあこれもお願いしようか」となるケースは珍しくなかった。営業に出向かなくても自然と電話が鳴るようになっていった。そしてテレビ局の取引先がもう1局増え2局に出入りさせてもらえるようになり、だいぶ仕事が安定してきた。仕事が仕事を呼ぶということを改めて実感した。立ち上げてから5,6年かかった。


 ピンチの後にはチャンスが来るとはよく言われるが、案外当たっているかもしれない。言葉で言うほど簡単ではない。当の本人がどん底から相当にもがかないとチャンスは巡ってこないというのが私の経験だ。でも全く巡ってこないってことはないんじゃないだろうか。今お世話になっている組織が最大級のピンチを迎えた。ことの成り行きによっては、私がお手伝いをさせてもらう機会を失いかねない状況で、他人事では全くない。私の会社の経営的にもそれは非常にマズい。残念ながらどのように舵を切っていくかの決定権は私には無く、動勢を見守るしかない。経営陣の奮起・英断に期待したい。もちろん私も全身全霊で支援させてもらうつもりだ。


 辛かったな~。あの頃にはもう戻りたくない。

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