神さまのいるところ

投稿者: | 2021-01-21

 ある日、母校の高校の全校礼拝に出席していた。そこでは毎朝600人を超える生徒と教職員がチャペルに集まり、みんなで賛美歌を歌い、聖書を読み、主に先生方のお話に耳を傾ける。これを3年間毎朝続けるだけで聞く力はもちろん、考える力や自分との向き合い方など、相当人間力がつくと思う。この学校が一番大切にしている“授業”だそうだ。冒頭はパイプオルガンの前奏を聴きながら目を閉じて慌ただしかった朝の準備から一つ心を静める。次に起立し、オルガンの演奏に合わせてみんなで賛美歌を歌うのだが、ここでちょっとしたハプニングが起きた。歌が始まってからオルガン演奏が止まってしまったのだ。

 伴奏とは言え、これだけ大勢の前で自分の演奏を披露するのが分かっているわけだから、昨日今日ピアノなりを始めた人が志願することはない。個人差はあろうが発表会などそれなりに人前で弾くことを経験してきた生徒たちがシフトを組んで礼拝の伴奏を担当する。高校生にしてすでに専門家とも呼べる生徒たちだ。そんな生徒でも何かの弾みで演奏中に急に緊張感に襲われ、パニック状態に陥ることがある。音やリズムが突然取れなくなり、自分が何をやっているのか分からなくなる。冷静を取り戻して演奏を立て直そうとすればするほど指が言うことを聞いてくれず焦りだけが募っていく。アカペラの歌声だけがチャペルに流れる中で、何とか次の小節の頭から復帰しようと試みるのだが、何度か挑戦しても音を外しすぐに止まってしまう。恐らくは凄まじい焦燥感と恥ずかしさに押しつぶされそうになり、彼女は今どんなに辛い時間を独りで過ごしているのかと想像すると、私はいても立ってもいられない心境だった。助けられるものなら助けてあげたい。でもどうにもできない。神さま。

 すると誰からともなく徐々にみんなの歌声が大きくなっていった。普段の礼拝ではお世辞にも立派と言えるような声量は出ていない。ところがこの日は伴奏者を励ますかのようにどんどん大きくなって、それこそ伴奏が止まっていることを忘れさせるくらい感動的な声量に膨らんでいった。歌っている生徒たちはもちろん伴奏が途切れてしまっていることに気づいてはいただろう。どれだけの人が歌いながら私のように伴奏者に思いを寄せていたかは分からない。しかし何人かは絶対にいた。そしてその人たちが今自分にできることをやった。一生懸命に歌ったんだ。その気持ちが歌声を通して人と人の間に伝わっていった。ちょっとした奇跡だったと思う。ほんの数十秒前まで神頼みしかできなかった憐れな私の心は熱く熱く感動していた。途中、胸が一杯でもう歌えなかった。伴奏者の「失敗」と言うか「弱さ」と言うべきか、彼女の「苦しみ」がみんなの『助けたい』を喚起し奇跡を起こした。

 どんなに彼女がその歌声に励まされたことだろう、救われたことだろう。まさに素晴らしい“授業”だった。先生も教科書も黒板もなく、音楽だけがそこにあった。そこで生徒たちは自らの手で一つ大きな学びを手に入れた。これに優る学びはあるだろうか。生徒たちは歌い終わって何ごとも無かったように着席していたし、聞けば「奇跡だなんて、そんな大げさな。普通ですよ。」と言うかもしれない。そんな凄いことをしたのに気づいてもいない。それでいいのかもしれない。凄いことを当たり前のようにサラッとできてしまう高校生は間違いなくカッコいい。

 若い人から学べることなんて、ごまんとある。

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