高校時代に「世界史特講」と銘打たれた社会の授業で「プラトンⅠ」という本を読んだ。その中の「ソクラテスの弁明」という箇所が取り上げられ、みんなで意見を交換しながら学んだ。確か受講していた生徒は10人以下だったと思う。あるいは5人前後だったか。大学で言うところのゼミのようなものを高校でしていたわけだ。今思うとそんな授業をして、かつての文部省的には大丈夫だったのかなと心配する。そういった部分では、自由?な学校だった。この授業を率いていたのが他ならぬ私の恩師で、25年経った今も私に聖書を教えてくれている方だ。
アポロンの神託を受けて「自分より知恵のあるものは誰もいない」と告げられたソクラテスは、神さまの真意を解き明かすために知恵があると思われている人々を訪ねて歩いた。自分が知恵のある者なんかではないと自覚していたからだ。そして政治家や悲劇作者、手工者たちを訪れ話をすると、彼らはそれぞれ何かを知ったつもりになっている人ばかりだった。ソクラテスは自分が何も知らないということを知っている点において、彼らよりも自分の方がより知恵があることを知るに至る。
ソクラテスはギリシャ人で紀元前469年生まれということであり、私が信じている(信じようとしている)イエス・キリストの神さまとは違う神さまを信じていた。アポロンのことは良く分からないが、ソクラテスが自分の神を信じ、衝突と貧乏生活を厭わず人々と話をし続ける人生を貫いたところをみると、神に服従する姿勢という点で相通ずるものを感じている。絶対的な存在に絶対的に服従することが原点であり、そこを起点として考えなければソクラテスの言っていることは全て成立しない。2000年を超えて語り継がれる物語には人を惹きつけ、真理とは言わないが、それに近づくヒントが記されているのではないか。あの頃から私は折に触れこのソクラテスのことを思い出す。どうしようもなく惹かれてしまう。
知ったような口を利いてしまうことが多々ある。特にお酒の席でよく宣ってしまう。次の朝は決まって猛烈な自己嫌悪感に襲われる。「穴があったら入りたい」というのはああいう気持ちなのだろうか、最悪の気分だ。「何であんな偉そうなことをオレは…」。“何で”って、私は間違いなく偉そうなんだから仕方がない。お酒が入ると普段は取り繕っていても徐々に化けの皮が剥がれてくる。あれが私の正体だ。ソクラテスには自分が知らないことを知っているという知恵があった。それ、欲しい。また無い物ねだりが始まった。しかし欲しがるだけでは手に入らないことには気づいている。それは外の世界から力で獲得するものではなく、自分の中に素地が整うならば自ずと宿り育ってくるものだと予想している。まずはソクラテスのように起点を持つところから始めたい。全てはそこからで、もう始めているつもりだ。
恩師はパルテノン神殿に行った際、そこにあった石を拾い上げ頬ずりしたそうだ。