思い込みを捨てて

投稿者: | 2021-01-31

 「どうして学校に行くのか」という質問に「素敵な人になるために」という一つの答え方がある。私もこれをよく使う。漢字を人より多く覚えるためだけではなく、早く走れるようになるだけではなく、人との付き合い方を学び、どうしたらいいかを考え、自分の中での“素敵”に気づいていく。教育を短く語ることは難しいが、とりあえずそんな風に簡単に答える。間違ってはいないと思っている。

 先生を含めた大人が「教育」をしようとして子供にできることは何かと考えた時、端折って言えば、情報の提供だと思う。何でもいい。私の大嫌いなゲームの類でも子供たちが求めるならば提供しよう。やってみてもらうしかない。本であり、映画であり、ピアノや水泳等の習い事、スポーツ、遊び、趣味の分野、もちろん勉強もそうだ。世の中にはこういうものがあるよと紹介してあげる。もしかしたら大人が形として認識していない分野の事柄がかもしれないが、何でもいいから子供が夢中で時間を忘れて没頭できるものとの出会いを供給する。食い付きが確認出来たら、あとは子供に任せればいい。飽きた時のためにコレもあるよアレもあるよと紹介し続けるだけだ。ただ一つ希望を言わせてもらえば、その時の子供の年齢・成熟度によっては、「それがあなたが“本当に”やりたいことなんだよね?」と問いかけはしたいと思う。

 結局は自分が本気にならなければ何も身に付かない。生きる力にはならない。勉強でもスポーツでも何でもそうだと思うのだが、個人的な鍛錬や練習が一番成長できると思う。野球少年だった経験とその時代の後悔を告白すると、自主練が足りなかった。圧倒的に足りなかった。本当に野球が好きで夢中でやっていたとは思っている。始めたばかりの頃は父に家のベランダにタイヤを括り付ける柱を作ってもらい、毎日力一杯バットで叩いてスイングの練習をしていた。そのせいか私のバッティングはとてもパンチ力があって、打球は強く、良く飛んだ。しかしパンパンとタイヤをたたく音は次第に聞かれなくなっていった。みんなでチーム練習や試合をするのは大好きで一生懸命やっていたが、今考えると“本当に”好きではなかったのかなと疑ってしまう。野球そのものが好きなのではなく、「みんなと一緒にする」ことが好きだったのかもしれない。

 “本当に”何か夢中になれるものが見つかれば、年齢に関係なく、時間を忘れて取り組むことができるのではないか。関心があればとことん聞いたり調べたり、自主練したり。最近はほとんどないが、夢中になっていると知らぬ間に空が白んできたなんてこともあった。そうすると自分の世界が広がる。関心が関心を呼び寄せるというか、それまで気にも留めていなかったニュースや知識が身近に感じられ、「そうか、それならアレにもチャレンジしてみよう!」と可能性が広がっていく。新しい人にも出会える。とてもワクワクして“素敵な”気持ちだ。そういう無邪気さと情熱と体力・気力と、持ち合わせたおじさんでいたい。

 何でもやってみないと見つからない。

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