私の真実

投稿者: | 2021-03-12

 簡単に言ってしまえば、勇気を持って言ってしまえば、「自分の心の中のことで精一杯で、周りのことが考えられない」と言うことだと思う。若い頃の話ではない、50歳を超えた今の心境だ。一番興味・感心があるのが自分の心という言い方も出来るが、それは逃げの口実のようにも思える。この歳になって自分の事だけで精一杯とは、何とも情けがない。

 考え、実行に移さなければならない、もしくは移す“べき”ことは、外の世界にはたくさんある。戦争・飢餓・難民・温暖化・原発・自死etc…、数え上げればキリがない。私はどの問題にも直接関与できていない。じゃあどの問題に携われば良いのか?私に選ぶ資格があるのか?分からない。今この瞬間にも困っている人がいる、救いの手を差し伸べなければ!

 誰かに誘われて何かを始めるきっかけになることはあると思う。もしかしたらそれは神の声かもしれない。でも本当の意味で自分の心がその誘いに自然と反応しなければ、それは時が満ちていないのだと思う。神さまからの呼びかけではないのだと思う。自分に嘘をついて始めても、恐らく長くは続かない。反対に否定したい自分も確かにいるんだけれども、抗えない心の叫びというか、どうしても湧き上がってくる“熱いもの”が感じられたとき、初めてそれは『使命』になるのではないか。

 「ごちゃごちゃクドクドとぐろを巻いていないで、さっさと何か始めろ!!選ぶ必要なんかないじゃないか!全部やれ!!」誰かがそう叫んでいるのが聞こえる。私は誰かの力になりたいと本当に思っている。でも動けない。「何か大きいことをしてあげられないんだったら、やっても意味がないのでは?」と思っている自分にも気づく。それも言い訳だ。そしてそれは、またしても上から目線に成り下がっている証拠だとも思う。何かやって“あげる”と思うことから間違っている。まず「共に歩く」というところに立って、何かするならするべきだ。だいたいこんな私が、そんな大それた事を出来るわけないじゃないか。何が出来るかなんかを心配せず、小さな事だとしても、今できることを懸命にやって寄り添えれば良いのだが、それができない。

 この問題は私の中で昨日今日始まったことではない。もう長い歴史があるといっても言い過ぎではないだろう、若い頃から悩んでいた。「人生の悩み」だ。今、私は開き直っている。「できないものはできない」。いつか“できる日”が来ることを誰よりも私が一番待っている。そしてその日を迎えるためには何が必要かと考える。結局いつも行き着くところは同じで、「今日を精一杯、誠実に生きる」しかない。現時点で究極の、唯一の答えだ。無理やりに自分を抑えつけよう、或いはこの方向に向かせようとしても、そのうち絶望してしまう。それは私自身の人生が証明している。精一杯生きて、後は神さまに委ねるしかない。今は本当に「それしかない」と思えるんだ。時が満ち、神さまが私を必要としてくれるとき、進むべき道は必ず開かれる。

 行動できている人は本当に凄いよ。

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