人生は孤独だと思う。私の気持ちを完全に分かってくれる人なんていない。それは違う人間だから。完全には無理。双子だとしてもそれぞれの道を進んで、それぞれが別の経験を積めば、接近できたとしても完全な同一感情の共有はできないと思う。つまり原理的に生身の人間でいる以上、同じ気持ちを持つことは不可能なことだと考えている。
誰も私の気持ちは分からない。だから「どうして誰もオレの気持ちを分かってくれないんだ!?」といくら声を張り上げて叫んでみても、それはそもそも無理。
自分のものの考え方や感じ方、捉え方を伝えたいと思う。誰も完全に理解してくれることは不可能だと自覚しつつ、しかしその思いは揺るがぬ強さを持っている。ある意味で矛盾している。それでいい。
私は私の言葉で伝え、受け手がその人の受け止め方で受け止める。同じ言葉でも一人一人違った意味合いがあり、捉え方をしているだろうから、私の言葉がその人独自の言葉・経験に変化して、その人の中に蓄積されていく。新しい経験。それでいい。
自分がされて嫌なことは、他者にしないのが基本だと思う。だから無理やり私の思いを伝えることを誰かに強いるのは絶対嫌だ。私は発信し続け、そうしていれば、もし私の言葉が必要な人がいたなら、その人にはいつか届くと思う。私にとってもその人にとっても、時が満ちた時に。神さまがきっとそうしてくださる。それでいい。
他者の心を完全に理解することはできない。でも精一杯自分の心を傾けて、できる限り理解しようと試みることはできる。完全には無理でも近づこうとする努力はできる。「寄り添う」ことは全く可能だ。寄り添ってくれる人たちに囲まれる人生は、もうそれだけで幸せではないか。誰も分かってくれないと嘆くより、分かろうとしてくれる人の存在に気づいて、与えられた恵みに感謝したい。だって、分かることなんて、そもそも無理なんだから。
寄り添える人間でいたい。私がそうしてもらったように、誰かの力になれる人間になりたい。でも本当に寄り添う為にはその“無理”を承知で、その人を完全に理解しようという心意気、勇気が必要なのかもしれない。限界を決めてしまった範囲内での行動では、それを心を傾けている姿勢とは言い難いし、新しい自分に出会えない。私にとってもその人にとっても新しい言葉に出会えない。何が正解何て分からないが、恐らくその範囲内には無く、殻に閉じこもっていては進むための視界が開けない。それでは寄り添うことにはならないのではないか。共に歩み出さないと。
人生は孤独だと思う。誰とも完全には分かり合えない。でもだからこそ、分かり合おうと、人と人の間で努力できる。とてつもなく尊い営み。
孤独=寂しいのは事実だ。寂しい中に浸りながら、世の中を悲観して生きるのも一つの人生。でももう一方で限界に気づいたからこそ、寂しさに気づいたからこそ、開き直れるケースもあると思う。寂しさの中にいることを自覚できたから、眩い希望に気づけたってことだってきっとある。
探し続け、もがき続ける人にも、神さまがきっと寄り添ってくれている。