On a Fine Day

投稿者: | 2021-05-06

 天気が良く、春の心地いいそよ風がなびく川のほとりの午前中、恋人たちや小さなお子さんを連れた家族連れがゆっくりと笑顔で散歩を楽しみ、またランナーたちがジョギングして行き交う様を見ていた。
 その光景に誘われるように、私もランニング姿に着かえ、コースに出た。目標タイムを決めて10kmの旅が始まる。膝の屈伸運動をしたり、アキレス腱を伸ばしたり等、軽く準備体操をしながら、2か月ぶりなので心の中は、不安そのもの。「10km完走できるかな?」
 走り始めると、久しぶりにも関わらず身体がペースを覚えているようで、自然と前がかりになりスピードを出してしまいそうになる。この現象は前にも経験していて、意図的にスピードを落とした。そのまま行ってしまえば、必ず途中で限界を迎える。ブランクを悔いたが、しかし無意図的に「身体が反応してくれた」という感覚は嬉しいものだ。私もまだまだ捨てたものじゃない。
 抑えたつもりで走り始めた割には、いわゆる「デッドゾーン」に思ったより早く入ってしまった。1~2km地点くらいだった。「まずい、これでは10kmなんて夢の話だ」。往復コースを選んでいたので、どこで引き返すかを早くも計算し始めた。そう思うと、今度は自分のプライドが顔を出す。「俺さまがこんなところで挫けるわけにはいかない!!」。弱気と強気が競い合いながらも解決策を協議し、「とにかく今は我慢して様子を見よう」と、中間地点を目指して気合を入れ直す。
 そのまま我慢して走っていると、苦しかったことがウソのように楽になっていく。少し周りの景色を楽しむ余裕ができ、首を振って辺りを眺める。この辺がランニングの醍醐味だ。美しい風景に囲まれて、「この土地に住んで良かった」と心底思える一時でもある。そうなってくると、タイムのことが気になったりしてくる。“現金”というか、人間とは本当に都合がいい生き物だと思う。
 折り返しをタッチして帰路へ向かう。お尻と太ももに強い痛みと張りを感じている。「行けるか!?」。痛み以外は比較的何もなく、汗をぬぐいながら走りを進める。発汗がとても気持ちいいし、頑張れている自分を誇りに思える。やはり私は汗をかくこと、スポーツすることが好きなようだ。
 残り2~3kmの辺りで、私がそう呼んでいる、「PRAY」の区間に入っていく。ここにはちょうど川にかかる橋と一棟の高層ビルが重なって『十字架』のように見える場所がある。走りながらなので、そう見える時間は10秒間くらいか。そこにかかる前辺りから「主の祈り」を心の中で唱えるのだ。これがパワーになる。不思議と言えば不思議であり、当たり前と言えば当たり前だが、祈りはパワーをもたらしてくれる。ここまでたどり着けば、後は何とか惰性で完走まで持ち込める。生命の区間だ。
 ゴールして、ストレッチ運動を走る前よりもずっと入念にしながら、頭の中は決まって前を見ている。タイムは後で機械的に確認して今までと比較はするが、それはあくまでも次の走りに役立てるためで、「ああすれば良かった、こうすれば良かった」などとその日の走りを振り返ることはほとんどない。私にとってはもうすでに過去のことになってしまっているようだ。

 「自分に甘い私」は、なかなか定期的に走ることができない。それも自分だと開き直っているが、この日走って、一回のランニングは「人生」の縮図のようだなと改めて思った。自分との戦いの中で、他人や不安や失望や誇りや生きがいや自然や苦しさや汗や美しさ、等々を感じながら、終わったときに全て忘れて次に向かっていく。そしてそれは本当に忘れ去られたわけではなく、その経験は確実に心の中に溜まっている。不図そんなことを感じた、何気ないお休みの一日だった。

 また筋肉痛と戦わなきゃ……。

コメントを残す

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください