Tornado

投稿者: | 2021-05-05

 26歳~29歳頃の2年半の間、カナダのトロントに住んでいたことがあった。そこで生活しようと決心して、職探しやもちろん英語の勉強など、必死に生きていた。時をほぼ同じくしてプロ野球の野茂英雄選手が海を渡ってきた。彼と私とではレベルが違い過ぎて比べようがないけれども、未知なる世界に活躍の場を求めた同郷の同士としてとても頼もしく感じ、あの活躍にはどれだけ励まされたことか。「ようし!野茂も頑張っているんだから俺も!!」と、今考えると意味が分からないが、とにかく心の底から勇気づけられた。
 オールスター戦で野茂選手が先発したとき、テレビを一緒に観ていたカナダ人の友達から、同じ日本人というだけで何故かめちゃめちゃ褒められた。関係ない私が褒められるのはおかしな話なのだが、何だかたまらなく嬉しくてちょっと泣いた。ちょっと忘れられない思い出だ。

 彼がたしか新日鉄堺だと思ったが、社会人時代から注目していた。とにかくそれまでの常識をひっくり返してしまうような“はちゃめちゃ”なピッチングフォームと、そこから放たれる150キロを超える、いかにも球質が重そうな豪速球にトキめいた。まるで打球のようだった。フォーム自体もそうだが、あれを誰にも修正させずトップレベルで突き通す魂にしびれた。球質だけの話なら、ドジャースに来たときよりも社会人時代の方が、実はストレートもフォークもスピードがあった。キレがえげつなかった。それでも大リーグで成功できたのは経験という投球術を身につけたことと、球が遅くなったせいかコントロールがついたからだと思う。あとは言うまでもなく、強靱な精神力が彼を新人王へ導いたのだろう。

 野茂選手に限らず、スポーツ好きの私は、これまで様々なスポーツのシーンに感動し励まされ、勇気づけられてきた。それはこれから私がキリスト者になろうがなるまいが、変えられようのない事実だ。スポーツを通しての経験が私をここに立たせている一つの大きな要素だと思っている。
 日本ではスポーツに携わっている人たちが、“下”に見られるような雰囲気があるように思う。勉強を“できる”人が偉くて、極端に言えば、スポーツは何か野蛮で低俗なもののように扱われる場合があるように感じている。私の錯覚だろうか。そうなら嬉しいが、例えば学校での体育科の先生たちの扱われ方を見ていると、あながち間違っていないようにも思える。カナダやアメリカでは、聞いたところによると、スポーツ選手たちは当たり前のように尊敬されているそうだ。確かにそんな感じがして、驚いたことを覚えている。

 東京オリンピックが間近に迫ってきた。たくさんのお金が動き、国際機関や政治家たちが右往左往する中、主役であるはずの選手たちの声が聞こえてこない。コロナで世界中が大変な状況に陥り、どうしたらいいのか、正解を持っている人はいないように見える。
 確かにスポーツはなるほど「不急」の代物かもしれない。生命を守るためにオリンピックの中止もあり得よう。選手たちは夢の舞台で活躍することを目標に、血のにじむ鍛錬を重ねていることと思う。その価値は何があろうとも汚れるものではない。
 誰かが言った、「大会社の社長は何人もいるけど、長嶋茂雄は一人だけだ」。スポーツの持つ価値と可能性を今一度みんなで確認したい。スポーツは決して「不要」ではない。

 あんな投げ方じゃ、実際投げられないよ。

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