Believe in

投稿者: | 2021-05-08

 キリスト教の神さまを私は信じている。もしくは信じているつもりになっている。「信じる」という行為をまだ本当の意味で理解できていないかもしれないが、自意識としては、私は神さまを信じている。今はその思いで精一杯で、「天」とか「死後の世界」などへ、思いを伸ばす余裕がない。つまり今の私にとっては、「神さまを信じる」=「死後の世界を信じる」ことにはなっていない。死んだらスイッチがOFFになるように、意識も記憶も、何も無くなってしまうだけなのだろうくらいに思っている。

 映画「ヒアアフター」を観た。登場人物それぞれが「死後の世界」に翻弄され、迷い、躓きながらも運命の出会いに導かれていくストーリーだった。
 どうしてこういう映画ができるのかを考える。どうして死後の世界の存在を題材とした、本や映画や、宗教や文化が生まれるのだろうかと考える。この映画の中にあったように、誰かが死後の世界へ行って見て帰ってきて、その様子を伝えたのだろうか。或いはある種の超能力のような、普通の人には見えない世界と通じる力を持っている人がいて、その体験を描写したのだろうか。はたまた想像力に優れた有能な作家が、人々が信じやすい巧妙で完全なフィクションを創造したのだろうか。
 「死後の世界」がある証拠はないのだろう。誰かが「自分は行ってきた」と言い張っても、その人の思い過ごしか、幻覚かもしれない可能性は消えない。しかし一つ言えることは、死後の世界が“ある”と信じて疑わない人たちがいて、“ある可能性がある”と思っている人を加えると、非常に多くの人たちが死後の世界の存在を意識して生きてきた。そうでなければ古代エジプト時代からこれほど永きにわたり、人々の関心を集めることはなかっただろうと思う。

 基本的には目に見えるものを基準にして日々の生活を営んでいくのだと思う。目に見える「日用の糧」(食べ物)を得なければ、生命の維持が危うい。しかしそれだけでは人生の中でいつの時か行き詰まってしまうケースが多いのかもしれない。時代や環境に因る部分が多く、一概に言うことはできないが、目に見えないものを信じる、信じたいという願いがそれぞれの上に降りてくることが往々にしてあるのだろうと推測する。私はあったし、色んな人と話をする中でそう感じる。そう願う人たちが必ず死後の世界の存在を信じるということではない。だがそこに救いを求める人は、もしかしたら私が思う以上に多いのかもしれない。そう感じさせる映画だった。

 目に見えないものと言えば、「運命」もその一つだと思う。この映画の中でも提議されていたが、一つの出来事を「偶然」と捉えるか「運命」なのか、「神さまのお導き」か「努力した成果」なのか。受け止め方はその人それぞれでいいし、恐らく正解はないのだろう。同じことを経験して、その受け止め方次第で、幸福感や達成感も、そして絶望感や厭世観等も生じてくるものだと思う。『何を信じるか』という基準によって受け止め方は変化し、その人の『どう生きるか』が定まっていくのだと思う。

  見えない世界の映像表現は難しいね。

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