Electricity

投稿者: | 2021-05-15

 「地球が静止する日」という映画がある。だいぶ前に観た映画で、細部まで覚えてはいないのだが、終わり方が衝撃的でとても印象に残っている。私が観たのは2008年に制作されたリメイク版で、一作目は1951年に作られているそうだ。随分古い。
 何が衝撃的だったかといえば、宇宙人が地球を人類自らによる破壊から守るために、最後の方法として施したのが、「人類から『電気』を奪う」ことだった。一切の電気、あらゆる電気という電気が地球上から無くなってしまう。私はそんなことはそれまで想像したことさえなかった。本当にもし電気が無くなったら、どうなってしまうのだろう。

 ちょっと考えてみる。……。何もできない。水道はとりあえずは出るかもしれないが、ちゃんと浄化された水がいつまで供給されるかは時間の問題だと思う。いや、管理システムがダウンすれば水も止まってしまうのかもしれない。ガスを制御できないなら、そこら中でガス爆発事故が起きるのではないか。車や電車が動かない。信号がつかない。エレベーターが動かない。冷蔵庫が、ウォシュレットが使えない。と、何を並べればいいか分からなくなってきた。まさに地球が静止してしまうのだと思う。私の仕事なんてやってみようがない。廃業だ。

 近い将来、燃料電池自動車を含めて、車は全て電気自動車になる。この映画のメッセージとは反対の方向へ自動車業界は進むことになる。爆発的に電気量を要するリニアモーターカーとそれを支える原発。Co₂排出を抑えながら莫大な電気を生産するには原子力発電所が一番有効なのだろう。しかし廃棄物の処理は地球規模の大問題だ。私は民間人が月へ行く時代の到来と共に、そのうち放射能廃棄物を宇宙に“不法投棄”する時代がくると思っている。そうなったら宇宙人にとっても他人事ではなくなるのだろう。かといって火力発電は熱を放ちすぎる。やはり電気は無くすべきものなのかも知れない。

 アブラハムが亡き妻サラの墓を建てるための土地を、地主が進呈してくれたにも関わらず、キチッと料金を払って購入したように、この世で生きる以上、何を信じて生きようとも決まり事には忠実であるべきだと思う。これは大前提で、私のモットーでもある。それはそれ、これはこれだ。
 「電気」は現代人にとって無くてはならない存在になっている。これほど便利な生活にどっぷり浸かってしまい、「電気が無くては生きていけない」と少なくとも私は言い切れる。それが私の現実だ。
 精神的な世界のことと現実の世界のことをごちゃ混ぜにして考えても意味が無い。しかしこの「なくてはならないもの」が『電気』という事実にどうしても引っかかってしまう。なくてはならないものは「神さま」や「信仰」である、と言いたいし思いたい。誰に聞かれても胸を張って、待ってましたとばかりに心の底から言い放ちたい。
 しかしそこで比べる必要はないと分かりながら、心の中で、電気が無くなったときのリアルな喪失感と、神さまを信じなくなったと仮定したときのそれを比べてみる。すると電気が無くなったときの衝撃の方が、今は強いのでは無いかと正直思ってしまう。「なくてはならないものは『電気』である」と、そう思ってしまった自分の真実に落胆してしまうのだ。

 ちょっと、考えすぎかな~?

コメントを残す

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください