Surprise

投稿者: | 2021-05-24

 「サプライズパーティー」というのがある。代表的なものは誕生日パーティーだろうか。ある人の誕生日に向けて、本人には知らせず友人だけで企画を練り、当日に準備万端整ったところで何も知らない本人を迎え入れる。たいていは照明を消した真っ暗闇の会場へ本人を誘導し、点灯とともに集まった人たちが「サ~プライズ!」と叫びながらクラッカーを鳴らして驚かせるパターンだ。当の本人はまさかと思い、びっくりして嬉しくて泣いてしまうなんてケースもあるようだ。私も一度だけこれに引っかかったことがあり、本当に驚いてとても嬉しかったのを覚えている。今でも思い出に残る、夢のような一夜だった。
 この“サプライズ”されることを嫌う人たちがいる。予想外の出来事を警戒するのだろうか。善意の塊みたいな催し物なのだから、たまには身を任せてみんなに甘えてしまえばいいのにと思うが、本人としてはどうもそうはいかないらしい。照れがあるのかもしれない。

 私はサプライズされるのは嫌いじゃないが、する方はと言えば、むしろやりたい部類に入る。パーティーの話ではない。少し大げさだが人との関係において、小さなことから大きなことまで全てについて、できれば交わる相手を常に驚かせたいと思っている。基本的には仕事でもプライベートでも何でも同じだ。驚かせたいとか喜ばせたいとか、それが何かをするモチベーションに繋がる。サービス精神が旺盛というのとまた少し違い、もっと根本的な心の深いところにある「欲求」のようなものを感じている。

 例えば仕事でホームページを更新するために、大量の写真から採用する写真を選び、色補正しリサイズし、文章を書き添えてアップする。坦々として退屈な、延々と続く作業に心が折れそうになることは少なくない。そんな時に私を支えてくれるのは、写真や記事を楽しみに待ってくださっているだろう、会ったことのないフォロワーの方々の存在だ。あの方々に“サ~プライズ!”するために、私は頑張れるのだ。
 例えば上司から頼まれていた会議資料の準備が遅れ、挽回するために休日出勤し、上司が週明け出勤するとデスクにすでに資料が上げてあるように整える。休日出勤の是非はともかく、私は上司に“サ~プライズ!”するために休みを返上できるのだ。
 例えば友人が悩みがあるから聞いてくれと飲みに出かける。私に人の悩みを解決できる言葉や知識が備わっているかは甚だ疑問だが、聞くことはできる。私の時間を使って聞いて差し上げることで、もし少しでも苦悩が和らぐなら、それは双方にとって“サ~プライズ!”に違いない。結果はどうあれ、心の癒しを目指して私は頑張れるのだ。

 そう考えると、人生なんでもサ~プライズかなと思う。「誰かのために尽くす」ということ。確かにそれが迷惑に感じられてしまうこともあると思う。サプライズパーティーが嫌いな人がいるように、想定外の出来事を「不快」とする性格があっても不思議ではない。
 しかしその危険を考慮しつつ、たとえ嫌われたとしても、私はサプライズを止めないと思う。そういうことが自然とできる自分が“いい”と思っている。自分らしいと思う。そうであり続けたい。サプライズが受け入れてもらえることで、どれほど大きな喜びが私にもたらされているか、生きる支えになっているかは、語り尽くせない。拒絶されたならその時にまた考える。「押しつけ」と「誠意」の違いを私なりにわきまえながら、サプライズしていきたい。
 ただここで一つ大きな問題がある。嫌いな人には「サ~プライズ」できない自分に気づいてしまうのだ。それではダメだ。このことを思い出すときはいつも、自分の小ささが悲しくなる。愛する人だけを愛するのは簡単だ。行くべき道は果てしなく遠い。

  「ありがとう」の笑顔が力になる

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