「相対的に見て判断する」ということがある。とても大切で、言わば「必要不可欠」な行程だと思う。自分だけの考えや思いの向かうままに行動すれば、人と人の間では生きてゆけない。平和をつくる一員にはなれないと思っている。それを踏まえた上で自分の意見を持ち続けることが私の目指すところだ。
私には赤色に見える事象が、他の人には青に見えるかも知れない。また別の人からはきっと違う色に見えて、もしかしたら人の数だけ違った色が存在するのかも。さらにはその日によって、例えばその時の気分や前日に読んだ書物、会った人からの影響等によって、同じ人でも見えていた色が変化することが考えられる。つまり見る人間自体が変化し、見方が変化するのだから、そうなってくるともはやそれが本当に何色なのかは混沌としてくる。答えが絶えず変化していけば、追いつくことは相当に困難で、「答えがない答え」に限りなく近づいていってしまう。けれどもそこで諦めることはできない。そういった事実を認識し、また情報をできるだけ集め相対的に考え続けることが大切だと思うし、それは私のやりたい事でもある。果たしてあれは何色なのだろうかと。
さて同様に私自身について、私は自分を例えば青色だと思っている。でもあるときは黄色のような気もするし、よく人からは「いつもあなたはピンク色だね」なんて言われたりもする。「私は本当はブルーなのに…」と、自分から見た自分と他人からの印象とのギャップに悩んだりもしてみる。
結論から言うと、自分が何色かは自分では決められない性質のものだと思っている。自分で決めようとしても無意味だと言うこと。それは他者が私を見て、決めたいのであれば決めてもらえばいいことだと思う。「あの色になりたい」というのは正直ある。しかしその色に私がなれているかどうかは他者の判断に委ねられていて、自分では分からない。
ただ私が他者から何色に見られているかは意識する。そこに一つの壁があるのかも知れない。本当はそんなことは気にせず、神さまを信じて、心の声が示した道を邁進できればいいと思う。それが何色であろうと、どう見られようと構わないかとも思う反面、しかし人と人の間で生きる以上、私の色は多かれ少なかれ他者に影響を及ぼす。芽生えた自分の意見を強く保持しながらどう行動するかは、やはり相対的な判断を通すことが必要だと私は思う。
そもそも人によって「色」に対する印象や捉え方は違う。同じ「赤」といっても好き嫌いもあるし、経験によって印象を歪められたり、変化させられたりすることもあるだろう。色に例えたのは少し無理があったかも知れない。私が混沌としてしまい、読んで下さる方を混乱させてしまったかも知れない。今日は少し反省している。でも抗う自分を誇りに思う。また明日から頑張る。
色々な色を混ぜると黒色になるらしい。