仕事で企画会議をするときに、時にはスタッフだけでなくお客様も一緒に話し合いの場を持つことがあるわけだが、私は道化役を意図的に演じる。いわゆる「ブレインストーミング」と呼ばれる、出席者が立場に関係なく自由にアイデアを出し合う場で、私はちょっと「それはないだろ」と蔑まれるようなことをワザと言ってみたり、暴論とも言えるアイデアを放り込んでみたりする。もしかしたら偉い方も出席されているわけで場の雰囲気を和ませる狙いもあるし、「それは無い」という範囲・領域をみんなで特定して共通理解とし、少しずつ選択肢の幅を絞っていく目的もある。しかし一番の目的は皆さんの常識的な思考を一度ぶち壊してもらって、もっと根本的な発想を刺激することにある。
本を読んでいて、「そんなバカな」と思う内容でも、何となくそのバカなことについて考えを巡らせている自分に気づくことがある。一度その“バカなこと”を自分の中に取り入れてみて、あれこれとシミュレーションしてみる。別の扉が開くというか、自分がこっちばっかり見ていたことに気づき、「そうか、そっちもあり得るか!?」と、アイデアの可能性が膨らむ場合があると思う。たいていは色々検討した結果「やっぱりこれはないな」と確認できて、それはそれで意味があることだと思う。一度検討してみるところに価値があると信じている。
例えば映像作品を作ろうとするとき、いいものを作りたいのなら多様なアイデアが欲しい。アイデアを生み出そうとするなら、プロデューサーという私のいつもの立場から言えば、なるべく障害物を取り除いた自由な精神状態をみんなが保てる雰囲気を作り出し、ディレクターなり実際の作り手に提供することが一つ大きな仕事だと捉えている。もちろんそんなことをせずとも、私がいつもピカ一のアイデアを提供できれば苦労はないのだが……。現実的にはやはり「三人寄れば文殊の知恵」を信じ、みんなで力と知恵を合わせることがベースの戦略になる。
もしかしてそれがホントに暴論でも、思い切って言ってみるのも、表現してみるのもいいかもしれない。特に何かと行き詰まっているときは劇薬的な刺激が効果を発揮することがあるだろう。いつでもどこでも誰が何を言っても構わないというわけではない。特に現場で大勢が共同作業する以上、秩序は常に重視される。しかしその上で優れたアイデアは常に必要とされている。
“バカ“な本を読まなければ、暴論について考えることなんて機会さえなかった。自分の好きな本を読むことや映画を観ることは勉強とは呼べないかもしれない。でも本当にそうだろうか。刺激を受けて考えることはこんなにも勉強になると私の経験が語っている。刺激を受けないと、自分の考えや思いを揺さぶって確かめることができない。ただ単に読むだけ、観るだけの作業ではもったいないと思う。いずれにしろ、独創的なアイデアの源が机上のいわゆる勉強だけに限らないと考えているのは私だけではない。
ワザとだけど、冷笑されるのは結構辛いのよ。