生命

投稿者: | 2021-07-08

 ある日突然大雨が降って、住んでいる家が土石流で流されてしまったとしたら、どんな気持ちになるんだろう。亡くなった人がいることを思えば、家が無くなるだけならまだいい方なのかもしれないが、衝撃は大きいだろう。コロナもそうだが、地震や大雨、また近年では毎年のようにやってくる記録的猛暑などは、何か地球に良くないことが起きていることを想起させる。果たして地球は、人類は、これから滅亡に向かっていってしまうのだろうか。

 と、大げさに書いてみたが、ニュースなどでよく見るのは被災した人たちがインタビューで、「まさか自分たちの身にこんなことが起こるなんて……」と一様に答えている様子だ。あの人たちはそんなことになるなんて夢にも思ってなかったようだ。私も自分に起こるとは夢にも思っていない。ということは私みたいな人間によく災害が降りかかるということなのだろうか。まさか家が大水で水没するなんて。まさか地震で倒壊するなんて。自分さえ良ければそれでいいのかと怒られそうだが、自分の周りがそうならないように願ってしまうのが正直なところだ。それが私の真実。残念ながらそんなもんである。

 事故や災害や病気で人が死ぬ。自分が愛して止まなかった人たちが召される。どうして神さまはこの人を生かしてくれなかったんだと嘆き悲しむことがあろうかと思う。例えば自分の幼い子供が酔っ払い運転のトラックに轢き殺された場合を考える。自分がどうなってしまうか私には分からない。他人事でも胸が張り裂けそうな怒りと悲しみを覚える。自分が信じている神さまはきっと私が愛する人たちを救ってくださると願うのは、私は自然な気持ちだと思う。その願いが叶わなかった時に本当の信仰が始まると教えられた。神さまを信じて信じ抜いた先に絶望があった時、その人の信仰が問われるということだ。とてつもなく厳しい教えだと感じる。すべては神さまのご計画のうちに起こった出来事であり、すべてを受け入れるということだと思う。それが私に出来るだろうか。

 世の中には理不尽に思えるようなことが起こる。その度に怒ったり、泣いたり、わめいたり、喜んだりするわけだが、私はそれでいいと思っている。様々な感情を抱きながら人生を過ごせることも神さまからの大きな賜物だ。やがてやって来るかもしれない絶望を恐れて、人生を謳歌することを止めるつもりはない。日々、生命が与えられていることに感謝して精一杯生きればいい。
 そしてもう一つ、あなたも私も神さまの創造物であることを忘れない。私の子供だとしてもそれは神さまの創造物であり、神さまからの預かりものだと思っている。まさに授けられた存在。もしも召されてしまったとしたら、それは引き裂かれるほどに泣き叫ぶだろうし苦しむだろうし、本当に気が狂ってしまうかもしれない。それでも神さまのなさることを受け入れ、身を委ねられるか。それが神さまの愛なんだということを認められるか。信仰とはそういった覚悟を迫られるものだと、今は思っている。

  今回の熱海で被災された方々に、心からお悔やみ申し上げます。

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