紙一重

投稿者: | 2021-07-21

 私が信じているキリスト教に「主の祈り」というものがある。お祈りするときはこういう風に祈りなさいという、簡単に言えば基本と言うか例と言うか“お手本”と言うか、祈り捧げるべき全ての要素が入っているとされている文言だ。食事をいただく前には目を閉じてこの祈りを必ず捧げてから、「いただきます」と手を合わせて食べ始めるようにしている。だから毎日最低2回は唱えるし、そのほか礼拝の時は当たり前だが、ランニング時等にも唱えるので、本当にしょっちゅうモゴモゴと念仏のように祈っている。

 この「主の祈り」を当然暗唱している。本当に不信心でバチ当たりな行いだが、朝食の前の遅刻しそうなようなときは、心も込めず早口で唱えて形式的に済ませてしまうことがある。それでは意味がないと分かりつつも、「せめて形式だけでも」という思いで自分を無理に納得させている。この罪には今日は触れず、つまり語句をいちいち思い出す必要がなく完全に暗記しているということだ。
 ところが極々たまに、いつもの言葉が出て来ないことがある。他のどんなセリフより何倍もの回数を毎日繰り返し唱えているにも関わらず、突然言葉の概念が異なる別の次元の世界へ瞬間移動してしまったかのように、発しようとしているいつものセリフに自信がなくなって混乱してしまうことがある。ほんの一瞬のことなのだろうが、拠りどころを急に失って、何を信じたらいいのか分からなくなるような酷く怖い瞬間だ。そんな時はつくづく自分が信用ならない存在だと自覚する。祈りが足りない。

 このブログを書くのは、だいたい夜の8時~10時くらいの間から書き始めることが多く、必ず「主の祈り」を捧げてから始める。とっ散らかっている精神を集中させたいという思いもあってのことだ。場合によっては繰り返し何十回も唱える。そうすると段々と気持ちが落ち着いてきて、何と言うか、意識がボ~っとしてくる。時間の進む速度がゆっくりになる感じだろうか。この状態に入るまで一時間以上要することも頻繁にある。そのくらいこの書く作業は私にとってはタフな行為だ。
 この状態が整ってそのままスッと書き始められればいいのだが、その日の体調や疲れ具合によっては急に猛烈な眠気に襲われ、ベッドに倒れ込むように寝入ってしまうことが多々ある。執筆時はカーテンを大きく開けて、大した夜景ではないが、景色を眺めながら書くと進み方がスムーズなような気がするのでそうしている。よって寝てしまったときはカーテンは開けっ放し、エアコンやコンピュータもつけっぱなしで、とても大人の寝室とは思えない状態のまま朝を迎えてしまう。もしくは2時や3時にパッと目が覚めて眠れなくなってしまい、もう書く気は失せているのでビデオを観ながらダラダラと朝まで過ごすこともある。そして明け方になるとまた眠くなるという悪循環が決まって待っている。

 「書ける状態」に入れるか眠ってしまうかは本当に微妙で僅かな差でしかない。紙一重の差にその日のブログの運命が託される。「ZONE」と呼べるのかは分からないが、ある種の催眠状態のような、私にとっては“書ける状態”を整えるために「主の祈り」は大きな助けになってくれる。いや、なくてはならないものだ。私の都合でいいように神さまを利用するような物言いで嫌だが、やっぱり神さまが書かせてくださっているという思いが強い。今日も神さまに感謝して結びとする。

 実は今夜もさっきまで3時間ほど寝ちゃってました

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