異質

投稿者: | 2021-11-19

 自分の常識が他者に通用しない。それは外国人など、育ってきた文化が違う人たちに対してのことではなく、日本人の中での話。よく考えればそれって特に不思議なことではないんだろうけれど、ちょっと驚いてしまっている自分がいる。今回の場合は具体的に同性愛者や偏愛者など。
 我々はみんなが同じ常識を持つように教育されて育ってきたのではないだろうか。道から外れないように外れないように指導され、集団の利益を一人一人が追求するように仕向けられていたように感じている。そうした中で急に多様性を尊重しろと言われても、多くの人がすぐにうまく対応できないことは無理もないと思う。
 私は学級委員長や生徒会長をするなどある種の優等生で、そういう集団を統率する急先鋒の役割を果たしてきたとも言える。まんまと“アンチ多様性”の旗を振らされていたわけだ。でも色々失敗を重ねる度に仲間に支えられてきた経験から、比較的多様性には寛容な方だという自負があって、「みんな違ってみんないい」と思っていると思っている。そんな私でも、余りにも自分の常識とかけ離れた感覚の持ち主と出会って動揺してしまった。結局やはり自分とは違う人や考え方を差別してしまっているのだろう。

 「どんな教育を受けてきたか」や「どんな人生を歩んできたか」等の問題はあるだろうが、いずれにしても私は今その延長線上で生きていて、過去に遡って修正することはできない。様々な影響を受けて培ってきたこの意識・感覚を持っている私が、これから異質な他者と出会った時にどう対応するか、どう生きていくかが問われる。
 そういう、私とは“違う”感覚の人たち、つまり私がびっくりするような人たちとこのまま距離を保ちながら生きていくことも可能なんだと思う。近寄らなければいいのだ。私には気持ちを理解することはできないけれども、その人たちが愛したいものを愛すことができて幸せならば、それで何も問題はない。無理やりに“私が思う”然るべき対象者を愛するように仕向ける気はサラサラない。
 問題はその人たちが悩み始めた時だ。「一般の社会に帰属したい」等、もし私にその手の相談が舞い込んできた時に、私は彼らと距離を取ったまま突き放していいのだろうか。私がなりたいのは、恐らくそういった場合に突き放せる人間ではない。

 悩み苦しむ人に寄り添うことはできても、本当の意味で「立ち直る」ことができるのは本人だけだと思う。誰かの人生を生きることはできない。本人が立ち直る力を持っている存在であること、人間とはそういう力を秘めている生きものだと信じて、その力を導き出すお手伝いができればなと思う。言葉だったり、アイデアだったり、私自身にも知識や力がないとやりこなせる仕事ではない。意気込みはある。しかし一番基本のところで、悩める人たちの気持ちが理解できなくても寄り添えるものなのかどうかという疑念は拭い去れない。これ、やっぱり難しい問題だ。

 とにかく自分と違う人を「道を外れた人」と見なすことはダメだ。今日はそれが一番言いたい。どこかで人生を分かった気で書いていることがあるが、とんでもない私の勘違い。ただ「感覚」の話なので、努力して分かるようなものでも無いような気がしている。私自身の経験がまだまだ足りない。勉強も足りない。修行だ。

 キリスト教を紹介するのも、一つの手段かも。

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