俯瞰

投稿者: | 2021-11-20

 もの凄く忙しい時、周りに気配りができないほど忙しくて目が回りそうな時。また、もの凄く頭にきて、怒りで我をも忘れてしまいそうな時。こういう時はなかなか自分を冷静な目で見られない。第三者的な視点で自分を客観視しにくい状況だと思う。「祈りが届きづらい」とも言える。そんな時こそ最も祈りが必要なときなのに、目を閉じて「主の祈り」を唱えてもなかなか集中できず、心に平安が訪れてきてくれない。私の課題は、一つこの部分にあると思っている。
 基本的に私は熱情家なんだろうなと思う。敢えて「情熱家」と書かなかったのは、「熱情家」の方がコントロール不能な少し野蛮なイメージがあると思ったから。恐らく私はそんな感じで、気持ちの状態に行動が非常に左右されるタイプの人間だ。極度に神経を研ぎ澄ませる必要がある場合やあまりにも強い感情に襲われると、そのことに捕らわれて自由が利かなくなってしまう。簡単に言うと、いつまでも大人になれなくて困っている。

 こんなことではダメだと思っていた矢先に、先日ちょうど忙しくて仕事の段取りを次から次へとシミュレーションしていたことがあった。ハッと気づき、目を閉じて手を組み、すぐにお祈りを始めてみた。頭の中がまだ仕事のことでグルグル回っている。「あれをまずして、これを伝え、そのタイミングで動けば、あれがうまくいく……」等々。どこかで「今は祈っている場合じゃないだろ!」と突っ込んでいる自分がいて、でもその声に耳を塞ぎ、そんな心の中で葛藤している自分を上の方から見つめるように努めてみた。しばらくすると祈りがスーッと身体に入っていくような感じがして、心が落ち着いてきた。忙しさが通り過ぎて行ってくれた訳ではなく、本当にそんなゆったりしている場合ではなかったのだが、何と言うか、軽く微笑してしまった。

 非常に理不尽な扱いを受けて激怒してしまった。一生懸命にやっていることを陰で否定されたことが許せなかった。直接言ってくれればいいのに。怒りを相手にぶちまけたわけではなく、いつものように拳を握ってじっと独りでグッとこらえていた。でも何をしようにもその激しい怒りがこみ上げてきて、どうにも収まらない。心臓が高鳴りカァーっと顔が紅潮し、暴れる気持ちを制御できないのだ。こんなことではダメだとは思っていたが、変に落ち着きたくないと思う自分もいた。
 でも今回思い切って、変な言い方かもしれないが、“上から”祈ってみた。なぜ「上」という方向感覚を持ったのかは説明できないが、暴れる心を押さえつけるという意味があったのかもしれない。すると、驚いたことに、そう、落ち着いてきた。反対に「これは自分じゃない」と思ったほど、怒れる自分を冷静に見始めることができた。今までになかった感覚。怒りはまだそこにある。決して消し去られた訳ではなく、そこにちゃんと燃えてはいるが、何と言うか、それはそれとして次の対応を静かに考える自分がいた。

 少し成長してきただろうか、或いは今回たまたまだろうか。歳を取ってきて“威勢”が萎えてきたからではないと思う。こと怒りに関してはむしろ激しさが増してきているように感じるくらいだ。この最近の二つの出来事は自分の暴れる心をコントロールできた、恐らく初めての経験だったので少し驚いたことと、そういった場合の対処方法を一つ掴みかけた手ごたえを感じたので、ちょっとした記念に今日は書かせてもらった。

 結局、「ジタバタしてもね~」ってことなのかな

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