火傷

投稿者: | 2021-11-28

 気持ちが変わり、それに基づく考え・意見が変わることを恐がる必要はない。むしろ変わっていくものだ。変わっていることを自覚しているのに、見栄を張ったり取り繕ったりして「変わっていない」と誤魔化すことの方が良くない。変わったら変わったでそのまま受け入れ、誠実に生きていけばいい。心の声に耳を澄ませることの方が遥かに偉大で、自分に嘘をつく必要はない。そういうことなんだと思う。
 それがたとえ人に迷惑をかけることになってしまったとしても、仕方がない。自分にはどうしようもないのだ。謝るべきところがあれば素直に謝罪し、前を向いて歩きたい。気持ちや考えが変わってしまったことで、「約束を守れなくなる」ということが起こり得るだろう。自分を信じて約束を交わしてくれた人たちに対しては、本当に申し訳ない気持ちしかない。しかし仕方がない。心からの謝意を表し、また前を向いて歩いて行けばいい。

 人生生きていればいろいろ起こる。身の回りの環境や出来事についてもそうだが、自分では想像もしていなかった変化が自分自身の内側にも起こっていく。新しく生まれたものが真に自分の心の奥にある真実ならば、それは無視できるものではない。無理に無視しようとするから「分裂」してしまう。人間は本来、「変化していく生き物」なのかもしれない。であるならば、人を傷つけることが嫌ならば、「約束」はしない方がいい。「約束」は人間が“できる”性質のものではないのかもしれない。
 だから人間が本気で他者と付き合おうとすれば、その人を傷つけてしまう可能性があり続けるということだと思う。いつ変わるか自分でも分からないのだから。お互いに傷つけ合うことになるかもしれない。それでもやっぱり人は人と人の間でしか生きられないのではないか。すなわち人は他者を傷つけ続けながら生きていく。傷つけてしまった傷を負い続けながら生きていく。繰り返すが、本気で生きようとするならば。

 私は今53歳。今までの人生が本当に誠実なものであったならば、すでに傷だらけでボロボロになっているはず。だがしかし、私はピンピンしている。自分の傷に気づいていない。自分の罪を意識できていない。今までどれだけの人を深く傷つけてきたか、自分がいかに大きな過ちを犯してきたか、自覚していない。そしてこれからも永遠に過ちを繰り返し続けることも。
 では、そんな罪だらけの、傷だらけの人生を、日々ビンビンに意識して生活できるだろうか。私には相当な苦痛に思える。歳を重ねるごとに傷つけ傷つけられ、自分の中に傷が増えていくということだ。そんな過酷さは耐えられそうにない。恐らくそれは誠実に生きようとすればするほど増えていくのだろう。憐れな人生に違いない。

 こうして書いているくらいだから、上記のことには勘づいてはいるのだ。結局私も誤魔化しながら逃げているのだと思う。そういう厳しい道を選ぶ「覚悟がない」とも言い換えられる。憐れな人生を認めたくないのだ。しかし「もうそろそろかな」という気がしてきている。
 一人では到底耐えられそうにない過酷さの中を生き抜くためには、神さまとイエス様に全てを委ねるしか、もう方法はないと思う。だが消去法ではなく、『委ねたい』という抑えきれない思いで心が満たされるまでは、じっと待ちたいと思う。

 変わっていいんだ!

コメントを残す

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください