NOTE

投稿者: | 2021-11-29

 授業や講演を聞きながら、キレイにノートを取る人がいる。また日々の何気ない生活の中でも、気になったことや出会った言葉を書き留めておく人もいる。後でキレイに整理してまとめるのだろう。凄いな~と感心する。

 ノートを取るのが私は大の苦手だ。講義を聴く時などは一応取ってはみるものの、汚い字でまるで落書きのよう。一文がたくさん殴り書かれているだけで、その文章同士の繋がりがよく分からない。書き直そうにも、清書にはなるが、キチンと筋立てて講義の内容をまとめるという作業にはなかなかならない。今まで随分もったいないことをしてきたのかもしれない。
 違う言い方をすれば、「書きながら聴けない」ということにもなるかと思う。ノートを取れない自分を正当化するつもりはないのだが、「人の話を聴く時は目を見て聴きなさい」と幼い頃に教わらなかっただろうか。私は話し手の目を見入らないと、話されている内容が頭に入ってこないことが多い。聴いているその時が真剣勝負というか、できる限りの集中力を発揮して聴き入る。聴いていて関心がある内容だったり、心に“引っかかった”、或いは“刺さった”内容になってきたりすれば、なおさら視線を外すことはできない。「一言一句聞き漏らしてなるものか!」と集中する。そんな状態の時に“書ける”人は、私に言わせれば、「集中してないんじゃないの?!」と疑ってしまう。いやいや、同時に複数のことができてホントに凄いし、羨ましいと思う。いずれにしても私の場合、聴いた内容をその時の内に脳に刻み込んでしまわないと、記憶にはなかなか残せない性質が強いようだ。

 そんな調子だから、例えば「あの時あの人が言った言葉は?」と訊かれても、なかなか出てこないことが多い。でも「言葉」なのか、「シチュエーション」なのか、また他の何かなのかはその時々だが、そういった再び偶然に出くわした「きっかけ」のようなものに脳が刺激されて、ハッと「あの時のあの人の言葉」を思い出すことがある。それは「あの本に確か書いてあったあの言葉」という場合も同じだと思う。どこかで憶えているのだ。
 ノートを上手く取れない私だが、どこかで「ノートなんて取らなくて良い」と開き直っている節がある。「大切なことは書かなくても憶えているから大丈夫」と、苦しい言い訳を続けている。もちろんそこまで記憶力が良いはずはない。本当は脳にも刻めてノートにも残すことができれば一番良い。そうしたい。でもできないんだからしょうがない。

 ノートを取れない言い訳をもう一つ。熱心に話をしてくれている人から視線をそらすって、随分失礼なことではないだろうか。話し手は講演などであれば1対100とか1,000とかという大人数に向かって話すのだから、私一人と視線が合うことはほとんどない。けれども聞き手にとっては1対1の真剣勝負であるべきではないだろうか。たとえ相手がこちらを向かなくても本気でその人の話を聴こうとすれば、やはり私は話し手を睨みつけたい。と言うか、本気になれれば話に引き込まれて他のことに気が回らなくなるという方が実際に近い。話を戻す。とにかく聴く側の姿勢としては、書いてはダメとは言わないけれども、基本的には手を止めて、真剣な眼差しを話し手に送ることが礼儀かなと思う。

 ん~、今日はちょっと言い訳がましいな~

コメントを残す

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください