My Way

投稿者: | 2021-12-05

 こうして日々ブログを書いていて、精神面での鍛錬についてのような内容が多く、運良く読んでもらっても「重たい」と敬遠されることばかりだと思う。これではなかなか皆さんに続けて読んでもらうことは難しいのだろう。厳しい現実を生きる中で、癒しや単純な楽しさを求めてインターネット上の記事や写真を見る人が多いのだろうと思う。私もその一人だ。プライベートの時間にわざわざ気分が沈むような真剣な内容に目を向けることは避けたいと思うのが普通だと思う。私の文章はそうしたニーズに応えられないことがちょっと悩みでもある。

 しかし、一人でも多くの人に読んでもらいたいことはやまやまだが、そういう気持ちとは裏腹に、もっとディープに潜行した文章を書きたくなってきた。というか、もっと自分を掘り下げて突き詰めたくなってきた。このブログは私の「行いの報告」の性質を持っているので、深く潜れば文章も自然と沈む内容になるかと思う。あまり見たくない部分、隠しておきたい部分にメスを入れるような感じ。
 ただいかに匿名での投稿であっても、他者が関わってくる内容であると状況的に書けない場合があり、それが私から表現方法の自由を奪ってしまう。執筆に当たり苦しむ理由の一つだ。詳しくは説明できなくて申し訳ないが、そういう制約があるなかで何とか頑張っているという状況。時にはその縛りのために、大きなネタを丸々失ってしまうこともある。書きたいネタがあるのに書けない現実はいつもネタを探している毎日にあって、一つの厳しい試練だ。

 でもブログを書くようになって、カッコ良く言えば「感受性を高める」ことに成功していると思っている。それまでは気にも留めなかった些細なことに着目できるようになり、好奇心も増してきているように思う。物事に興味を持つことができれば「学び」が始まる。大学受験時代よりも今の方がよっぽど辞書を引いているのではないかと思う。老眼で近くが見えなくなってきてそのたびに老眼鏡や虫眼鏡を使って小さな字を覗き込むのだが、その煩わしさにも負けずに我ながら良く頑張っている。30年後にこんな風に勉強しているとは夢にも思っていなかった。不思議な感じがする。

 このブログを書くことは自分の心の声に耳を澄ませる行為であり、懸命に考える作業であり、そしてそれは私にとって神さまへの信心を突き詰める行為に他ならない。一日一日を誠実に生きる証しである。だから恐らく読む人には「重い」と思う。チラッと目にしたとして、好意的な人でも「ちょっと今は遠慮しておく」という方が多いと思う。その気持ちはすごくよく理解でき、だから無理強いなんてできるわけがない。
 繰り返すが、読んで欲しいのはやまやまだ。でも自分に嘘は付けないし、裏切りたくないし、もちろん神さまへ対しても誠実であり続けたい。だからたとえ重たかろうが暗かろうがウザったかろうが構わず、深く深く掘り進めたいと思う。それが一番自分のやりたいことだと感じるし、それでいいと思う。険しい道だとは思うけれど、それしかできない。

 読んでもらえなくても、それでいい

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