TIME

投稿者: | 2021-12-13

 クロノスとカイロスという時間の捉え方がある。これについての私の理解を簡単に書いてみると、誰にとっても公平で、長くも短くも変えることができない正確な時間がクロノス。これに対してもっと感覚的な時間と言うか、同じ長さの時間でも長く感じたりアッという間だったりするのがカイロス。昔のこと、例えば高校時代の友人に再会するなどして当時の思い出にふけっていると、まるでその頃から現在までの時間が無かったように、高校時代が俗に言う「昨日のことのように」感じられることがあると思う。記憶の中で高校時代にある種の「点」を打ち、その点と現在が結ばれた瞬間とも言えるかもしれない。過去のことが驚くほどリアルに思い出される場合があり、また新たな気づきというか、新たな過去理解がなされることがあると思う。
 しかしそれは正直、過去の出来事を自分のいいように歪めて理解する危険性をいつも伴っていることも付け加えておきたい。吟味・確認は常に必要だ。

 「あれはどういう意味があるんだろう?」等と何か心に引っかかっている問いのようなものを無意識に抱えている時があると思う。聖書研究会を月に一度、現在はコロナの影響でオンラインでの開催になっているが、行っている。毎回新しい学び・理解を発見することができる、私にとっては言わば魔法のような時間だ。
 毎回聖書を読む範囲を決めて事前に予習するのだが、参考文献に当たってはみるものの到底自分だけでは行間に隠された意味を理解できない。一回の範囲はそんなに長い範囲にはしないので何度も何度も読んでみることができる。ところが分かったつもりになっていても全然理解できていない。でも理解したい一心で必死に読んでいるせいか、分からないながらも何か“問い”のようなものが心の中に宿るような気がする。何なのかはその時ハッキリとは分からない。“引っかかり”というか、気持ちのいい代物では全くなく、そのせいで苦しさを感じる時もある。そして本番の聖書研究会の場でその問いを解くヒントのようなものを感じ取る。直接正確な言葉で正解を教えてもらうのではなく、恩師の言葉から自分で感じ取るという感じ。

 そしてその感じ取ったヒントが次回の開催までの間心の中にあり続け、変化していく。新しい、私にとってのより確かな理解に育っていく。その確かさの光が眩しさを増すほどに、予習しながら悩んでいた期間に「点」が打たれ、現在の自分の心と結びついていく。「あ!もしかしたらそういうことなのかもしれない!?」と、その「点」から現在までの悩んでいた時間が、ひとつのスッと胸に落ちる「新しい理解」となって、私のカイロスを作り出す。そこでは時間が存在しないような、止まっているような錯覚に陥る。いや、錯覚ではないのかもしれない。

 40年近く前に担任だった先生と今一緒に聖書を学ぶことで、40年前に“引っかかった”問い”の存在に気づき、段々とその答えに近付いているような感じがしている。完全な答えが見つかるかどうかは、いや、見つからないかもしれない。しかし私の中で40年前の朧気な記憶の中に「問い」という名の「点」が輪郭を見せ始め、「今」という名の「点」がそれに繋がろうとしているように思えてならない。どちらの「点」も肉眼で見える性質のものではないだろう。そしてその点と点を結ぶものも、きっと、目に見えない何かだ。

 長い短いは、関係ないのかも

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