寛容(その2)

投稿者: | 2021-12-18

 南の島の大王の子供は、風が吹いたら遅刻して、雨が降ったらお休みするそうだ。昔はそんな生活が何とも羨ましく感じられた。いや、今なお羨ましいかもしれない。その子供は自然の中で多分とても自然体で生きているような感じがする。きっと日焼けした満面の笑顔で、いつも友達とふざけ合っているのだろう。大人的には、「人生を謳歌している」とでも言えるかもしれない。何とかしてそんな感じで生きられないものだろうか。

 恐らくあまりにも周りの目を気にし過ぎながら、私は生きているんだろうと思う。誰からもいい評価をつけてもらおう、「いい人」であり続けよう等、他者から見た自分の姿をより良く見せるために無理して生きているように感じる。この理解はまず間違ってはいないと思う。「人や社会の役に立つために」、「自分の働きを心待ちにしてくれている人たちのために」等と言えば、本当に聞こえはいいが、結局は自分の評価につなげるための手段でしかないように思う。目に見える評価を訴求していった。
 それが悪いことだとは思っていない。今までそうすることで人とのコミュニケーションを保ってきたわけだし、そんなに悪い人生ではなかった。今こうして健康で生きていられることが何よりの証拠だ。幸せを感じている。ただ歳を取ってきたせいなのか、そんな自分の価値観に気づき、疑問を持ち始め、「おまえはそれで本当に良いのか?」と考えるようになってきたということだ。

 裏に隠れた真の目的が何であれ、私は何かを志すときに自分自身を固くしばり上げ、理想の形を押し付けるところがある。ノルマとでも言っていい。できもしない難題を課し、できなかったという結果が現れると勝手に失望して残酷なまでに自分を卑下する。我ながら、あれでは余りにもかわいそうだ。イライラしてどうしてそこまで自分を傷つけるのかと考えてみると、“恥”をかいたと思うからだと思う。「他者に良いところ見せられなかった」、或いは「バカにされた」と、事実はさておき、私が思ってしまうからだと思う。まぁ、俗にいう「プライドが高すぎる」と言ってしまえば、その通りだと思う。

 私の心の闇ともいえるこの問題の根は深い。一朝一夕に解決できるものではなかったし、これは日々のちょっとした行為、例えば挨拶の仕方であったり、扉を閉める時の後方確認であったり、中座するときの椅子のしまい方にまで及ぶ“しきたり”のようなものなので、改善すると言っても相当難儀な作業になる。改善するべきかどうか自体の検討も含めて考えていきたい。
 しかし今日はそういう細々した対応の仕方ではなく、もっと大きな意味で「自分を諦めよう」という心持ちで生きていこうと思い始めたということ。「自分を許してあげよう」とも言える。聖書の『いちじくの木のたとえ』を読めば、イエス様だってそんな清廉潔白にどの場面でも完璧に生きたわけではなかったことが窺え、「おまえは充分に頑張っているから、できなくても自分を責める必要はないよ。イエス様だって人間らしい“愚かな”行いをしていらしたじゃないか」と思える。「イエス様にできないのに私にできるわけがない」という目から鱗の気づきがある。そういえば聖書を読み始めた当初から「心の貧しい人々は、幸いである」と習ってきた。その言葉がやっと胸に落ちてきた感じがする。
 「愛をもって大らかに、自分を諦めて生きていきたい」。自分の理想や常識を盾に、自分を貶めることはするべきではないんじゃないかと思う。

 南の島のようにはいかなくても、もっと楽にしていいから

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