Compose

投稿者: | 2021-12-19

 「音楽は無限に創ることができる」と聞いたことがある。本当かどうかは知らないが、音階とかリズムとか時間とか、音符の組み合わせでできるパターンは限りがないということなのかもしれない。音楽のことはよく分からないが、限りがないことが本当だとして、しかもどうやら「正解」と呼べるものもなさそうな気配は、その類の人たちにとってはたまらなく魅力的な世界なのかもしれない。

 音楽を聴いていて、やはり心に響くかどうかではないだろうか。クラシックでもポップスでもアニメソングでもジャンルを問わず、いいと思った音楽を聴く。歳を取ったからと言って無理にカッコつけてジャズを聴く必要もないし、ちっともいいと思わないのに“若ぶって”ラップを聴いていても痛々しいだけだ。音楽って聴いていると自然と身体や心が動くものではないだろうか。「動く」とは高揚したり感動したりすることはもちろん、癒されることや落ち着くことの意味も含んでいる。だから生きている以上、好きな音楽が変化していくことは当たり前のようにも思える。人は変わっていくものだから。

 音楽には「正解」がないと書いた。多くの人からの支持が集まれば“ヒット曲”としてさらなる注目を集めることができ、それはある意味で「正解」なのかもしれない。クラシックの巨匠たちは版権の有効期限が切れた後も、私たちの心の中でその「正解」らしき楽曲と共に、永遠かと思える永い時間を生きている。
 クラシックに限らず音楽に携わる多くの人たちは自分の曲を世に知らしめたいと狙っている。でも恐らく「ヒット=正解」ではない。みんなから認められれば、それが即ち全部正しいとは言い切れない部分があると思う。
 好きか嫌いかという判断はきっとあるんだろうと思う。もしかしたらモーツアルトにも世に出さなかった大好きな一曲があったかもしれないし、有名な曲でも嫌いな曲があるのかもしれない。しかしたとえ天才が愛した楽曲も、それが正解だとは言い切れない。ただ好きか嫌いか、良いとか悪いとかという、本人にも含めた人間の評価があるだけ。真実は宙に浮いたままだ。

 作曲をする人たちは、プロやアマチュアを問わずヒット曲を作るために活動している人がほとんどだろうと思う。そのためのノウハウを技術的に習得している人たちもいるかもしれない。そういう人たちも含めて、これは予想でしかないが、音楽を創る作業というのは自分の中にある何かと向き合うということなのではないかと思う。なかなか見つからなくて苦しいけど逃げずに向き合い続けて、結果おたまじゃくしが舞い降りてきたり、来なかったりするものではないかと想像する。手指を動かしながら心の音に耳を澄ませると言うか。時にはあまりにも突然に旋律が心に宿ったりすることもあるのかもしれない。そうだとしたら、レベルの違いはちょっと置いておいて、その行為は私が神様と向き合う姿勢と酷似している。曲を創るということはちょっと宗教っぽい性質があるのかなと思った。
 お粗末ながらこのブログもクリエイティブな作業の一つに入れてもらえるのであれば、全くもって宗教的な行為だと思う。「無限性」、「好きか嫌いかという評価」、「正解がない」、「舞い降りてくる」。共通する項目が多いように思えた。そしてこのブログを読んでくれた方々の心が「動く」ことを祈るばかりだ。

 でも、忘れられない曲って、あるよね。

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