以前に仕事でビデオ撮影するために、イベント会場内の指定されたある部屋へ入ろうとしていた。ところが扉が開かない。イベントの開始時間が刻々と迫り、焦り始める。ノブを反対に回したり力を入れて引っ張ったりしてみるが、一向に開いてくれない。「これはカギが掛けられている」と思い、慌てて会場の方に助けを求めると、扉を押してスーッと入っていってしまった。「この形状はどう見ても“引く”ドアだろ!?」と内心ツッコミを入れたが、所詮“押す”ことを試さなかった私の稚拙なミスだった。どうして私は融通が利かないというか、応用が利かないというか、不器用なんだろうと思う。でもまぁ、それも私なのだ。
「押してもダメなら強く押す」という性質が私の中にドンとあるように思う。頑張って頑張って、力尽きるところまで行かないと気が済まない場合がある。基本的には“三日坊主”な性格だと思うのだが、飽きっぽい部分と裏腹にそういう頑固なところがあって、最近の言葉で言えば私は“面倒臭い”おっさんなのだろう。本気になれた時はとことんやろうとする傾向が見られる。
以前に映画「レディ・プレイヤー1」を観た。おっさんの私には露骨なCGが多すぎて、ストーリー上仕方がないのだが、まぁ、ファンタジーな感じで好きな部類ではある。
この映画の中で主人公がバーチャル空間でのレースに参加するシーンがある。大勢が栄光を求めて我先にとしのぎを削って争うわけだが、どういう訳か誰一人としてこのゲームをクリアすることができない。レースなのでみんながバイクや車など乗り物に乗ってスタートラインに立ち、毎回進行方向に向かって爆走を開始する。誰もが一番先にゴールすることを目指すのだから常識として当たり前だ。しかしそこは何でもありのバーチャルの世界。ゴールが前方にあるとは限らない。主人公はあるヒントを得てスタートラインから逆方向へ向かって発進し、ついにこのゲームをクリアした世界で初めての人間としての称号を獲得する。
私はキリスト教に関心があって、イエス様への信仰を持ちたいと願っている。聖書と懸命に向き合うなど、そのための努力もしているつもりだ。でも恐らく「信仰」というものは経験値を積み重ねたり、祈りを重ねて頑張ったりすれば、自ずと授かることができるような性質のものではないような気がしている。要はどうすればいいか分かっていない。しかしやはり今私ができることは「押す」ことなのだ。祈り、そして聖書に向かい続け、心の声に耳を澄ませる。これが私が捉えている「信心を突き詰める」という行為で、これしかできない。その先に「信仰」がもたらされるのだと信じている。
でもそれは「自分が気持ちがいいから、納得がいくから」やっていることに過ぎないのかもしれない。「自分への誠実を果たしている」と言うか、或いは「自分へ向かっている」と言うべきか。向かうべきは神さまであり、キリストであることを、私は忘れてはいないだろうか。一番の関心事が「自分自身」になってしまっているようだ。そういう意味で自分を諦められていない自分を自覚する。
本当に欲しいものって、真逆にあるのかもね