Holy Night

投稿者: | 2021-12-25

 「必死」という言葉がある。戦争にでも出征すれば別だが、何かを一生懸命やっても死にはしないだろう。でもこの言葉には「死」という文字が含まれる。「命を懸けるほどに」という意味の比喩なのかもしれないが、なんだかちょっと大げさに感じる。果たして私は自らの命を懸けるほどに頑張っていることがあるだろうか。

 聖書を勉強している。どんな風にやっているかと訊かれれば、私は「必死に」という表現を使いたい。非常に難しい書物だ。書いてある文章が難解という意味ではなく、その示す意味が分かりにくい。何回も何回も読んで“必死に”行間や裏に隠された意味を読み解こうと頑張っている。そして試行錯誤する中で読み方のあるヒントを得た。
 それは「自由に」読むこと。聖書研究会という勉強会を立ち上げ、その指導を私の高校時代の担任の先生にしてもらっているわけだが、今まで私はその先生の目を意識しながら聖書を読んでいたように思う。先生の傘の中で先生に寄り縋って、自分ではそんなつもりは全くなかったのだが、“お気に召す”ような理解の仕方を目指していたことに気づいた。そういう意味で自立できていなかったと思う。そもそも当の先生が私のそんな読み方を求めているはずもなかった。
 そして最近ようやく自分の足で歩み始めたという感覚を持てるようになってきた。「自分の足で」とは、「キリスト教のお作法がどうであろうが如何なるタブーを設けず、誰に何に対しても気兼ねすることなく、自分が一番やりたい方法で自由に」という意味である。そう思ったら重荷を下ろせたように楽になって、分からない箇所は「分からない」とおかしな言い方だが、堂々と言えるようになってきた。本当に必死に読んだ上での「分からない」という結果なので、もうそれ以上は助けを求めていいんだと思えるようになってきた。ここまで来るのに5年かかっている。少し進行のスピードが遅すぎるだろうか。

 そんなこんなで精神的にもスッキリし、型にはめない読み方ができつつあった矢先に、先生からまた新しい“お題”をいただいた。「聖書を読んで自分の心に宿る思いを大切にすることは宜しい。その上でもっとイエス・キリストに注目しなさい」というアドバイスだった。あまりにも私が自分のことに精一杯で、自分に誠実であろうとし過ぎていて、「根幹であるキリストの理解に心が向かってないのではないか」という指摘だった。痛いところのど真ん中に剛速球が轟いて、思わず怯み、見逃してしまった。掴みかけていた自信が砕け散った。

 自分で「あ~、オレってダメな奴だな~」と思う。「5年経ってもこれかよ」と落ち込む。でも必死で読んできた5年間の結果だった。これ以上はできなかった。だからもう自分を卑下することは止めて、反対に「よくここまで来れたじゃん」と開き直ることにする。実際何もしなかったとしたら今頃どうなっていたか分からない。必要な時間だったんだと希望の明日を見据えたい。幸せだと感じられる今があるから、きっと無駄じゃなかったと信じられる。
 神さまとイエス様からの恵みと平和が、私たちと共にありますように。

 メリー・クリスマス

コメントを残す

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください