強いる vs 伝える

投稿者: | 2020-12-18

 「こうしなさい」とか「こう考えなさい」等、何かを強いられるとちょっとした憤りや拒絶反応が起こる。素直じゃないと言われればそれまでだが、特に思想というか思いの持ち様は私の自由だ。何かを信じたいから信じられるし、信じなさいと言われて信じられるものではない。私はクリスチャンではなく、受洗を目指して勉強している状況にある。牧師先生の説教を聞いていてももう頭っから「信じなさい信じなさい、キリストは素晴らしい!」という論調で攻められると私の心は冷めて離れて行ってしまう。それはコントロールしようとしてもどうすることもできない。それで良いのではないかと思っている。自分を偽って無理をして受洗したとしても、それこそイエス様への裏切り行為だ。そんなことは神さまは望んでいらっしゃらない。

 キリスト教だけのことに限らず、それは何にでも当てはまると思っている。今いろいろ習い事をしている中で、技術はそれは素直に教えてもらう。その為にお金や時間を使って努力をしているわけだ。でも技術を教えてもらうだけでは自分に新しい力を蓄えることはできず、必ず“気持ち”の必要性が伴う。本当に真剣に取り組まないと技術は習得できないし、学ぼうという意欲がないと絶対に上達はしないし応用が利かない。レッスンでヒントを得た後の自主練が一番力になるんだ。自分が本気でやりたいと思って行動できる内容でなければ全ては無駄でやらない方が良いのだ。まぁ「やらない方がよかった」という事実が後々役立っていくのではあるが、目指す方向としては本気で取り組むことができるものに絡みたい。この時に本気になれた内容だったとしても、インストラクターなり教えてくれる人が精神的に何かを強いてくるともう私はついて行けなくなる。

 例えば「陽気で楽しい心持ちの方が記憶する能力が上がりますよ」と言われても、酷く沈んだ気持ち・状況の時になかなか押し上げられない。知識として教えてくれるのはいい。きっと誰かが調べたたくさんのデータが証明しているのだろう。教える立場の人間として生徒を引っ張り上げリードしていくのは役割の一つでもある。だからといって実際にその現場で受講生にそれを強いてはいけない。結果的に明るい気持ちになれないままレッスンを受け、その受講生の覚えが悪かったとしても、それは個人が取り組むべき問題だ。そして以後のレッスンをどういう心持ちで受けるかも受講生次第である。行き過ぎる精神的な強要は洗脳行為と取られても仕方がない。

 お酒の席や後輩に何か相談事をされた時に、偉そうに何かを強いたことはないだろうか。自分の理想を振りかざして悩んでいる相手に無理をさせようとしたことはないだろうか。私はある。自分がされたら最も強く拒絶するだろう事を良かれと思って人にしてしまっている。馴れ合い、甘えの類いの私の弱さがここでも露呈している。自分が一番嫌がっていることなのに、最低だ。
 恩師は私に何かを強いること何て一回もなかった。そういうタイプではない優しい方だ。だから驚いた。聖書研究会をやっている最中のある時、「神さまを信じてみろ」と仰った。びっくりして聞いた「先生がそういう強要するようなことを仰るなんて意外です」。先生曰く、「うん、私はおまえにこれが言える日が来たことが嬉しい」。私はその日から神さまとイエス様を信じている。

 人に大切なことを伝えようとするなら本気で迫らなければならない。時を見極めながら。

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