昔、小学校の頃はマンガを夢中になって読んでいた。家が喫茶店をしていた関係で少年ジャンプを毎週取り寄せていて、あろうことかお客さんより先に読ませてもらっていた。他にも少年チャンピオンやコロコロコミック等々もむさぼり読んでいた。水島新司さんの「ドカベン」は40数巻全部揃えてあって何度も読んだし、父の本棚に並ぶ冊数と競うように大好きでどうしても手元に置きたいタイトルは随分買ってもらっていた。恐らく大学へ行ってからもしばらくは何かしら読んでいたと思うが、何かのきっかけでパタリとマンガを卒業してしまった。カナダに渡って日本のマンガが手に入りにくくなったからだったかもしれない。
それからマンガが読めなくなった。話題になったマンガを開いて読もうとすると嫌悪感を覚える。あんなに好きだったのに「どうしちゃったんだろうか」と自分でも不思議だ。思うに、本当は読まなければならなかった教科書や参考書など受験勉強のために必要な書物から逃げていた象徴としてマンガが自分の中に位置づけられているのではないか。やっと抜け出せた呪縛にもう縛られたくないと無意識に拒絶しているのかなと思う。かといってマンガを離れたら猛烈に勉強を始めたかと言えばそんなことは全く無い。つくづく私は繊細で弱い人間だと再確認する。あ、まぁでもカナダ時代は英語はかなり一生懸命に勉強した。
マンガって「絵じゃん」て馬鹿にしている部分があるのかなとも思う。どこかで見下しているんだろうか。いや、確実に本と比べて見下している。またもや比べてしまっている。マンガを創り出すのにどれだけの努力や願いが費やされているかを知ろうともしないで。本には本の、マンガにはマンガの良さがあるではないか。そんなことを言えば本だって内容には質の善し悪しはいろいろある。自分の中で凝りに凝り固まった既成概念がこびり付いて離れない。自由になれない。あぁまだ私は自分で築いてきた小さな鳥かごの中に閉じこもり、全く翼を広げられていない。それが現在地だ。
「4番キャッチャーで甲子園に行くんだ」。その夢は山田太郎が与えてくれた。その夢に幼かった私は幾度となく支えられた。私を育ててくれた大切な要因の一つである。マンガという創造物を一括りで捉えて全てを肯定も否定もする必要は無い。あるのはたくさん読んで大きくなったという事実だけだ。マンガに限らずどれだけ多くの方々の力や夢に支えられて育ってきたんだろう。一人の力で生きてきたなんて思っていたとしたら思い上がりも良いところだ。事実を見ることができていない。これからも助けられながら生きていくんだと思うし、私も何かを返しながら生きていきたい。誰かの助けになる何かを創って生きていきたい。マンガに感謝。
鬼滅でも読んでみっかな。