律法学者

投稿者: | 2020-12-22

 自分が考えている常識、正義というか、もしかしたら他者から“きれい事”と捉えられかねない考え方を持っている。「世の中は多様な考え方を持った人が無数にいて、それが当たり前で、それでいい。その人々の間で助け合いながら認め合いながら共存していく。個々が自分に責任をもち法律や約束事を守りながら他人の権利を尊重して生きる。」このように大枠として書き出してしまうと大げさに聞こえてしまうのは自覚している。実際の生活の中では、お年寄りは大切にするとか、目上の人には敬意を払うとか、「ごめんなさい」や「ありがとう」を言うとかという至極単純なことだ。この考えではダメだろうか?時にこういった私の常識事が全く通用しない人たちに出会う。若い人たちに多いかもしれないが大人でも確実にいる。注意すると逆ギレされたりする。頭に来て嫌な気持ちになり、結局自分が損をする。


 私が歳を取ったから私の言う“常識”を理解できない人たちに憤りを感じるのだろうか。ん~、でもそうかもしれない。どこかで「自分はこんなに忠実に常識を守っているのに、何故あいつらは……。」と、私の“掟”に従わない人間は許せないと迫らんばかりの憎悪が私を覆い尽くす。特に車を運転している時に多い兆候だ。翻って、では自分は常に完璧な運転をできているか、いつもお年寄りに席を譲っているか、瞬時に適切なタイミングで適切な言葉を発しまた行動できているか。できる訳がない。偽善にも程がある。私は偽善者だ。


 また比べている。「自分はできているけどあの人はできていないからダメな人だ。」この点、本当にどうにか修正したい嫌な考え方、自分だ。難しいとも思う。なぜその人の立場で考えられないのか、心理状況や境遇などを知れば仕方がなかった行動かもしれない。でもそこまでは瞬時には思いが巡らない。やはり元から叩かねばダメだろう。自分が当たり前と思っているところを叩き崩して、愛をもって接してゆく。ん~、それができるようになるにはまだ道は果てしなく続きそうだ。難しい。自然にできるようにならなければ意味がないだろうし。


 一度怒ってしまうと自分で気持ちをどうにも押さえられなくなってしまう傾向がある。怒っている自分が嫌いで、こうして何故怒りが生まれるのかを真剣に考えていくと不思議と心が落ち着いていくことも確かだ。そして怒りに襲われる時もう一つ気づくことがある。それは怒りの中にプラス“恐れ”があるということ。自分が理解できない行動や言動を相手が取った時、恐れを感じる。どうしてそんな事を言ったりしたりするのか分からない恐さを感じる。これは否定も無視もできなく、確かに怒りの中にあるものだ。未知への恐怖感と言えば大げさだろうか、これについてはもう少し深く検証・考察してみたい。


 書くことは本当に、分からない自分の気持ちの整理に近づける。

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