生きているということは、いつも死の危険に晒されていると言い換えられる。ある日突然車に轢かれてしまうかもしれないし、歩行中に頭上から重い物が落ちてきたり、コロナに感染してアッという間に逝ってしまうかもしれない。遅かれ早かれ、いつか死ぬ日に向かって人は着実に歩みを続ける。
カナダに住んでいた頃、ある日本人の友人が日本で大きな震災があった時に、「自然淘汰」だと言った。日本国内では人口が減少傾向にあるが世界的に見ると爆発的な増加の一途を辿っている。この流れを変えるために何かの力が働き震災を起こすことで人の命を奪い、人数を削減しているとのことだ。随分乱暴な説だなと思った。被災して苦しんでいる同胞がいるのに、そんな風に考える人が身近にいたことに驚いた。でも私はその時カァーッと腹が立っただけで、キチッと反論できる根拠を持ち合わせていなかった。今も無いと言えば持っていない。世界では新型コロナウィルスが猛威を振るい、一年弱で約190万人もの人が亡くなっている。経済活動の縮小に伴う企業の倒産、解雇、破産などに起因する自殺者はこの数字には含まれていない。コロナ対応のために逼迫している医療体制下で、受けるべき治療が受けられないコロナ以外の病気に罹患している患者が命を落とした場合もカウントされてはいない。もう一方で交通量の減少や観光客の激減で北京市の空気がきれいになり、またベネチアの運河は透明度が戻ってくるなど、地球規模の環境汚染問題を考えると朗報も伝えられている。
旧約聖書にはモーセの時代、神さまはエジプトに対し10の災いをもたらされたと記されている。ナイル川の水を血に変え、イナゴが大群で押し寄せ、3日間真っ暗闇にし、疫病を流行らせた。またもっと前のノアの時代には大洪水を起こしていらっしゃる。神さまがなさることはいつも意味があった。今回のコロナ感染で神さまは何を啓示していらっしゃるのだろうか。「なにげない日常の恵みに気づき、感謝すること」、このことがキリスト教に関係あるないに関わらず、社会へ広く痛烈に伝わっているのは周知の事実だろう。ただそれだけではない気がする。
一日も早く日常を取り戻したいと真に切に願っている。だがしかし毎日の祈りの中で私が祈る言葉は変わらない。「私の営みを支え、お導き下さい」とは祈るけれども「早くコロナを収束させてください」とは祈らない。なぜか。それは「神の御業には抗えない」と感覚的に分かっているからだと思う。私たちはワクチンを開発するために全力を注ぐべきだし、感染防止対策に知恵を絞りみんなで協力して乗り切る努力を尽くすべきだと思う。やれる事は全てやり切りましょう。でもコロナを収束させたり、ワクチンを開発させたり、空気や水をきれいにすることができるのは神さまだけではないか。だとすれば私たちができることは、やはり今日一日を精一杯生きるしかない。あとは神さまが担って下さるんだ。
生かされている私たちには、生きる意味がきっと与えられている。