Miracles

投稿者: | 2021-01-09

 「あれ何て言うんだっけな~」と独りで思い出せないでいると、偶然誰かが関係ない会話の中でその言葉を発することや、読んでいた本の中にそういう表現がたまたま出てくることがある。その瞬間はラッキーと思うのだが、あまりにタイミングが良すぎると少し気味が悪く感じることもある。「また神さまが教えてくださった」と無邪気に思えるほど幼くはない。素直に喜べばいいのかもしれないが、何か別のことを勘ぐってしまう。「これは何かの暗示なのかもしれない」とか。今のところ私に予知能力があることは確認できていないのだが。

 漢字クロスワードパズルをしていた。「○法規○」の二つの丸にそれぞれ違う漢字一文字を入れて四文字熟語を完成させるのだが全然思い浮かばずに悩んでいた。悩んでいるうちに会議が始まりその問題をとりあえず頭の隅に押しやって参加していた。すると発言者が「感染の疑いがある12名が超法規的な措置により昨日のうちに全員PCR検査を受けることができました」と報告した。私は良かった良かったと思いながら僅かの時間差で何か別の熱い感情がもの凄い勢いで胸に湧き上がってくるのを感じた。それは感動とも言えるほどの高揚感だった。新聞社がその日にその問題を紙上に掲載する可能性は何%くらいあったのだろうか。そしてコロナウィルスに感染したかもしれない身近な人12名がその前の日までに症状を一堂に訴える可能性は。そして保健所が今回その超法規的な特別措置を発動する可能性は一体何%くらいあったのだろう。そしてそれらの要素が絡み合いかけ合わさって、最終的に私が会議の発言者から「超法規的」という答えを手にすることができたパーセンテージは?たかがクロスワードの話で大げさだと批判されそうだ。でも真剣に計算したら奇跡的な確率に近くなると思う。

 考えてみれば世界は奇跡だらけだ。日常は生活は奇跡の積み重ねから成り立っている。奇跡しかないとも言える。ただ私たちはそんな奇跡を「当たり前」としか捉えられない。日々奇跡の体現者でありながら自覚が全くない。吸い込まれそうな満天の星空を見上げるとき、あるいは雄大な大自然のパノラマを前にして、人々は往々にして自分の存在の小ささに気づく。そして「どうして普段あんな小さなことに拘っていたのだろう」等とまるで決まりごとのように同様の感想が繰り返される。ただ忘れたくないのは、確かにちっぽけな私たちの、だけどかけがえのない唯一の奇跡が集まってこの世界を形成しているということ。そして奇跡は神様にしか成しえないと信じている。

 小さい頃は友達からよく表現が大げさだと言われた。ちょっとのことで大騒ぎすると。良く言えば感受性が強かったということなのか、感動屋さんだった。言われるごとに恥ずかしさを覚え後悔し、意識して段々とあまり気持ちを表に出さないようになっていった。「何も悪いことではないよ」と、今ならあの頃の自分にそう言って励ましてあげられる。あのまま素直に感情を出せる子で育ったらまた違った人生になったかと思う。今からでも感動屋さんにまた復帰しようか。そっちの方がきっと楽しい。ほんの小さな奇跡にいつも感動できる“幼い”おじさんになりたい。

 結局は正解を教えてもらっちゃったってことになるんだよねぇ……、不正解、だな。

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