少し愛して、なが~く愛して

投稿者: | 2021-01-17

 Facebook等のSNSを始めて、まぁ猛烈な勢いで立て続けに投稿を繰り返す人を目にする。食事のメニューや風景写真などを織り交ぜながら、よくまぁこんなに載せるネタがあるなと感心するぐらい頻繁にアップしてくる。見る方専門で“友達”はそれほど多くなく、さほど活発には利用していない私のFacebookページは、時にその類の一人の投稿で埋め尽くされることさえある。少し困りつつ、でも凄いなぁと感心もする。ただそれが長い期間続くのであれば本当に尊敬に値するところになるが、大抵の場合は熱しやすく冷めやすいといった調子でいつの間にか消えてしまうことが多い。そうなると「ああ、やっぱりね」といつも残念に思う。

 「自分を知ってほしい」という欲求が人にはあると考えられる。しかし全く知らない人に自分が何かを伝えようとしても、反応は未知数で多少の怖さもある。そこでそれほど親しくなかったとしても昔の同級生やちょっとした知り合いなどであれば、だいたい自分がどういう人間か分かっていて、「このくらいのことは受け入れてもらえるんじゃないか」と、無意識に少し甘えられると思うのだと思う。Facebook等はそういった心境の人たちには渡りに船で、さらに“いいね”が付いたりすれば嬉しくて爆発的に投稿を繰り返してしまうことは私には良く理解できる。ところがその状態は長く続かないのが常だ。消息が分からなかった少し前の状態に戻っただけとも言える。でもまぁ私としては彼らが消えてしまっても、生存確認できただけでとても価値がある。爆発的でもなく音信不通になるのでもなく、細く長く続けるのが一番いいと思うのは私だけだろうか。

 SNSは友達に現況を報告すること、つまりグループメールを送ることと限りなく近いと思う。私はそう捉えている。私に“だけ”ではないけれど、私に“も”送られてくるのだ。だから私は私宛のメールに対して何かしらのリアクション、「いいね」や「すごいね」を押して返答するわけだ。押せば名前が表示されるので少なくとも私が見ていることが伝わる。文章で返答する必要がない分SNSは使いやすいと言える。それまで親交が途絶えていた人たちを探し当て、容易にやり取りができることを考えると非常に便利で良いツールだと思う。

 私はこのブログを自分の考え方やものの見方・感じ方などを伝えたいと思って書いている。つまり当然私にも「自分を知って欲しい」という欲求があるわけだ。ただブログはSNSとは性質が違うものだと思う。特定の人宛てには書いていない。誰もが読んでもらえる環境に置いてあるので、読みたくなければ訪れなければいい。読む人が自分のページを立ち上げると自動的に視界に入ってくるものではない。だから良い。選択権はいつも視聴者にあるのだ。映画を作りたいと若いころに思い立ち、まぁ今でもその夢は捨てていないわけだが、映画が良いのは視聴者が観に行かないと観られないところだと思っている。NetflixやAmazonビデオ等のオンライン動画サービスにしても同じことで、自分で選んでボタンを押さなければ任意の映画は観られない。それを観るか観ないかはその人に委ねられている。誰かに強いるのではなく、「観たいもの、読みたいもの」を提供していきたい。可能性が自分の中にあることを信じて。

 全部に“いいね”押すのも適当に押しているようでなんか嫌なんだよねー。

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