サントリーさんの影響か…

投稿者: | 2021-02-07

 昔から何となく「知識」への憧れがある。いい大学に入りたいとかテストで一番を取りたいとかということではなく、博識になりたいというか、知識そのものを獲得したいという漠然とした願いみたいなものがあった。それは違う言い方をすれば「徳」を得るという表現になるのだろうか。いや、「徳」という言葉から受ける印象とは少し異なる感じがする。人徳のようなものが欲しいわけではない。

 いつの頃からかその「知識」を得たいという感覚が「真理」に迫りたいという欲求に変わっていった。万物に精通する真実。歴史や文化、宇宙から原子に至るまで、全ての事象に共通に通用する事実。カッコつけて大きなことを書いてみたが、つまりは学問というか、書物なりで勉強するという「自分の外」にあるものよりも、私の「内面」に存在する謎に心が向かっていくようになったということだ。私は机上で学ぶよりも、実際の生活・行動する中での営みに答えが潜んでいると直感的に思った。高校時代のことだ。自分が経験した内容が浅く乏しければ、もしくは苦労した経験が少なければ、何か言おうとしたときの言葉一つひとつに重みと信憑性が伴わないと思った。だから行動しなきゃと志した。カナダへ2年半行ってきたことは、思いを実際に形にできた最たる例だ。良い悪いはない。その時のベストを尽くした。ま、単純に勉強が嫌いだから逃げたと捉えてもらっても構わない。

 ニーチェという人がいた。哲学者として世界的に有名なドイツ人だ。名前は超有名なので知っていたし、「哲学」という知識分野に小さいころから何となく惹かれていた。小学校時の同級生「哲くん」の名前の由来を聞いて興味をもったのが初めだったかもしれない。ニーチェの本をいつか読みたいと思っていた。「ツァラトゥストラⅠ」という本を読んだ。まぁ、難解で分からない。読むのが苦しかった。内容を読み取れていないと自覚したまま、我慢してとりあえず目を動かすことは本当にキツい。何度も何度も引き返して読み返す作業を強いられた。読みながら寝落ちした回数は、覚えていない。しかし本当に不思議なのだが、結果的に心に留まった箇所に貼った付箋紙は58枚に上った。この付箋を目印に2度目3度目を読む日が来るかもしれない。来るだろう。読み終わって、ニーチェに対する「哲学者」という認識はちょっと違うんじゃないかと思った。少なくともこのツァラトゥストラⅠを書いた人は「詩人」だと捉えている。長い詩を読んだのだと理解できる。そうであればあんなに内容を理解できなかったことが理解できる。何だかちょっと哲学的になってきた。そして私が「詩」はあまり得意じゃないことに気づいた。苦痛だった。

 結局、机上の学びも経験になるのだ。私は間違っていた。実際に行動して得た経験も机上の学びから得た経験も、真理に近づくヒントを得るためには「どちらも」必要なのだ。今回はっきり自覚できたもう一つは、自分に入ってくる言葉とそうでないものが読むスピードではっきりと分かれることだった。かなり瞬間的な速い速度で分けられる。それは自分の中にある言葉や内容かどうかに関わっているんだと思う。キリスト教に関する記述があると自然とグッと気持ちが引き締まることを自覚できた。「時が満ちた」から読めたのかもしれない。辛かったけど。

 Ⅱも持ってるんだよね……。汗)

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