肩の力を抜いて

投稿者: | 2021-02-22

 清らかな心とはどんな心のことだろう。この「清らかな」というフレーズは数日前にも触れたジェームズ・アレンさん著の【「原因」と「結果」の法則】の中で盛んに使われていた言葉だ。「清らかな思いを持ちなさい。そうすれば自ずと良い行動という花が咲き、良い環境という名の果実を手に入れることが出来る。」その人を取り巻く環境を生み出すのは「心」に原因があるとのことだ。良い環境、悪い環境に関わらず、あらゆる環境についてそれは成り立つと論じられている。加えて世の中に偶然などというものはなく、全ての出来事が心・思いに起因しているとも書かれている。

 出勤して早々に仕事で少しイライラすることがあった。私は心の中で「清らかな心、清らかな心、穏やかに穏やかに」と唱えながら、何とか冷静になろうとしていた。そのようにして心を静めようとするのは悪いことではないと思う。我ながら健気な行いだ。できれば私だって平穏な心持ちで仕事に取り組みたい。自己をコントロールする方法として一つ大いにありだと思う。しかしジェームズさんが言わんとするところとは少し乖離しているのだろう。私がやっているのは「清らかな心」という名の鎖で自分自身を縛り付ける行為だ。これを続けていく先でもしかしたら清らかな心を授かる日が訪れるのかもしれない。それ以外にちょっと方法が見つけられていないが、手段はともかく、最終的には私の内側から湧き出るように清らかさが溢れ出てくることを目標としたい。ジェームズさんが意図しているのもその辺りだと思う。そしてその時初めて「清らかな心」という言葉が私のものになると予想する。また一つ“もがく”お題をこの本が与えてくれた。感謝。

 ジェームズさんは、「神は私たちの内側にいて、私たちの『思い』こそが神だ」と書いている。今の時点でこれは私の考えとは異なる。自分の心と神さまは別と言うか、私は全ての事象は神さまから与えられていると思っている。「偶然の産物」に見えても神さまのご計画のうちにあったものと信じている。あとがきの翻訳者の文を読むと、定かではないがジェームズさんはクリスチャンだったように見受けられる。毎日夜明け近くに小高い丘で1時間ほど瞑想するのが日課だったそうだ。それでいて哲学やトルストイ、仏陀にも造詣が深かったということで、そうすると私なんかよりもずっと長く深く、熱心に神さまについて考えていらした事は間違いないだろう。もちろん考え方は一人一人違って良いし、「長い時間をかけて熱心に考え続ければそれだけで優れている」ということにはならない。けれども私が自分の意見と違うからと言ってジェームズさんの思想・感覚を否定し忘却することはしないし、できない。理屈ではなく彼の言葉に惹かれている自分がいることを確かに感じているから。心に留めてその意味を吟味していきたい。だいたい本当に異なっているかもまだ分かっていない。

 目の前に現れた本を一生懸命に読んでいる。行間を読み取るというか、書かれている内容を自分に当てはめて追体験し、“私”の経験にしようと試みている。仕事であれ、トレーニングであれ、家族や友人とのプライベートな関係であれ、読書であれ書くことであれ、目の前に現れたものにピュアに一生懸命に取り組みたいと思う。そうすることで「清らかな心」が、きっとやってくる。

 ホントにこれからだよ。

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