Everywhere

投稿者: | 2021-03-01

 神さまはイエス様のお名前を通してしか届かない、遠い上空の彼方にいらっしゃると漠然と思っていた。ところが最近読んだ複数の本で「神さまはあなたの中にいるんだよ」という意味合いの言葉を目にし、少し動揺していることは前に書いた。食事をする前に必ず「主の祈り」を唱えるのだが、今日の昼食を前にし、神さまが私の胸の中にいると仮定して、試しに自分に向かって主の祈りを唱えてみた。自分の胸、心に語りかけるように唱えた。しっくりくるような気がする。神さまに失礼な言い方かもしれない。でも私の語彙の中で「しっくりくる」がその時の感覚を表すのに一番合っている言葉だと思う。

 神さまがどこにいらっしゃるかを意識せずに今まできた。どこかという場所の特定はあまり必要性を感じていない。ただ自分の胸の辺りに目標を定めると、集中して祈りを込められるような気がする。いつものことだが、それが正解かどうかは分からない。一人一人に神さまがいるように、いらっしゃる場所も人によってそれぞれなのかもしれない。私は私の場合をまず考えよう。自分のことさえ分からないのに、他者の事を決して分かりはしないだろう。

 自分の胸に向かって祈っていると、前方に組んでいた手が、自然と胸の辺りに近づいてきた。そしてだんだん姿勢が胸近辺を中心に丸まってきて、身体が小さく縮んでいくような気がした。祈りが身体の中へ中へ向かっていくようだった。あまりにも漠然としていて、濃霧の中、自分がどこに向かっているか漂っているような今までの祈りの感覚から、すっきりと焦点が定まってお腹に力が入れられる感じ。感覚的なことでしかないので確信めいたことは言いたくないけれど、自分の胸や心に向かって祈る方が「祈りやすい」というのが正直なところだ。かといって、そうなると「祈りやすければいいのか」という問題も自然と湧いてくるだろう。ん~、難しい。

 実際自分に向かって祈ってみて気持ちがよかったとしても、神さまが私の中にいらっしゃるかどうかの証明にはならない。単に私の空間を認識する能力が乏しいだけの結果かも知れない。ただ一つ思ったのは、神さまが上空の彼方にいらっしゃるとは限らないということだ。もしかしたら、あそこでもここでもなく、そこら中にいらっしゃるような気がしてきている。右も左もどこを向いても、あるいは目を閉じても、そこには神さまがいっぱいいらっしゃるのかもしれない。いや、きっといらっしゃる気がする。だから神さまを探して祈るのではなく、今自分が気持ちがいい場所があるなら、そこに焦点を絞りまくって精一杯祈る生活を営めばいいと思う。培ってきた知恵と感覚を信じて、今できることをしよう。そしたら私のいる空間は、やがて神さまでぎゅーぎゅーに埋め尽くされるかもしれない。ちなみに「アミ 小さな宇宙人」という本によると、「神は『愛』そのもの」だそうだ。もしも愛でぎゅーぎゅーにされることがあったなら、それは人生、変わるかもね。

 今は「気持ちいい」をアンテナにしている。

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