Opponent

投稿者: | 2021-03-30

 先日の日曜日のあるテレビ番組で俳優の武田鉄矢さんが「日本人は会話ができるけど『対話』ができない」と仰っていた。「友達など仲のいい人同士で仲良くお話は盛んにできるけれども、意見の違うもの同士がお互いの人格を否定することなく、主張を戦わせながら、建設的な議論をすることができない」ということだと思う。本当に耳が痛かった。まさに仰るとおりという感じ。
 自分の意見を否定されると、私なんかは頭に血が上って冷静な判断は愚か、相手の言っていることさえ聞こえなくなってしまう。そんな状態では「対話する」ことなどにはほど遠い。この悪習は急には変えられるものではなかった。しばらくの時間と経験が必要になると思う。今までそういう状況を避けてきた傾向にあった。対話するという良い“癖”を若い時分からつけておけばよかったな~とは思う。しかし今気づいたのなら、今が「気づくべき時が満ちた時」なんだと思う。

 「対話」は簡単ではないと思う。根本的な人との接し方にも関わってくる話だ。まずは偏見を持たずに相手の外見や出自に左右されず、尊重する姿勢が必要かと思う。自分の内面の問題も大きく関わる。高すぎるプライド、好き嫌い、冷静さを保つことができる精神状態、アンガーコントロール能力、自分の意見を変更する勇気、等々。また言うまでもなく知識や経験の豊富さは進歩的な対話を助けてくれるだろう。こうして見てくると、対話するにはそれまでの人生をどう生きてきたかが関わってくるように感じる。大げさな気はしない。これはやはり一朝一夕に片付くような問題ではなさそうだ。

 キングスレイ・ウォードさんが書いた「ビジネスマンの父より息子への30通の手紙」という本を読んだ。この中で会話するときのマナーとしての記述で、私は対話するときにも通ずる内容だと思った箇所があった。「自己中心的にならない」こと。話し始めると“自分が自分が”ばっかりに陥り、そうなると相手の話を聞かず、時には話そうとする相手を遮ってしまう無作法も犯してしまう。そんな行為は相手の話に興味がないという気持ちの表明と取られても仕方がないだろう。それでは文字通り話にならない。
 私の経験の話。会議中に私の意見に同意できないある方が、持ち前の声の大きさを利用して語気を強め、威圧的に私の発言を遮ったことがあった。そんなことがまかり通る雰囲気では、本当の対話は生まれない。非常に憤りを感じたし、それを見過ごす司会者にも腹が立った。そこでそういう会議自体の体質を改めるべく、発言なり提案なりすれば良かったのかもしれないが、私も心底機嫌を損ねていたし、しなかった。色々残念だった。

 違う意見がある。誤解を恐れず言えば、だから面白い。私は自分の意見を強く持ちたいと強く思っている。しかしながら自分の意見をより真理に近づけたいという思いはもっと強い。だから怒らず、騒がず、偏見や慣例に惑わされず、相手の意見を吟味する姿勢を身につけたい。自分の意見をぶっ壊されることを恐れずに。

 オレなんか声が被りそうだと、話してる途中でも反射的に黙っちゃうけどね。

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