Called to Heaven

投稿者: | 2021-04-05

 クリスチャンではない私は、キリスト教の洗礼を受けることを一つの目標にしている。その立場から時節柄、イースターについて触れてみたいのだが、「イエスの復活」が示す意味が私にはまだ遠く感じられ、深く掘り下げて考えることができていない。一人の死んだ人間が生き返るということだと思うが、私にはまだ実感が湧かない。委ね切れていない証拠だ。しかし、開き直って思い切って書いてみようと思う。恥を承知で、素人丸出しで、この際不勉強をさらけ出してみる。

 古から、「死」への恐怖による呪縛から解放されるために、様々な宗教が生まれてきたと聞いたことがある。死ぬことや死後の世界の有無は、人間の大きな関心事であろう。死への恐怖心が取り除かれれば、さぁ、人間は、私はどうなってしまうのか。私にとって生と死はいつも背中合わせで、今日も命がある恵みに感謝するときは決まって、死の影を意識する。「死」が「生」を高めているとも思える。
 ではなぜ死が恐いのだろうか。「まだやり残したことがあるから」、「愛する人たちと会えなくなるから」、「もう終わりだから」。改めてなぜ恐いのかと聞かれると、明確には答えられない感じもする。
 こうして自分が死んだときのことを考えていると、テレビの電源を消すように、全てがプチッと消えて無くなってしまうような感じなのかなと想像する。そこで終わり。視界も聴覚も思考も何もかも全部シャットダウン。死んだことによる、悲しさも名残惜しさも悔しさも、楽しい思い出も親しかった友人や家族の存在も、生き甲斐や達成感や喜びや嬉しさも、全てゼロ。何も感じない。だとするならば、死ぬことはそれほど恐いことではないような気がしてきた。

 どこかで人間は死後の世界の存在を信じているのではないだろうか。少なくとも私は何となく自分でそんな意識があるのかなと思う。そこがどんな様子の空間・場所なのかは知りようがないけれども、死後の世界では、自分が生きていたときに持っていた欲望や生き甲斐を満たすようなことは、もう不可能だと感じている。未来への可能性が絶たれるわけだ。
 「もっと幸せな気持ちのままで居たい」とか、「あれをしておけばよかった」等々、無念な気持ちに襲われる場合があるだろう。そんな気持ちを引きずったまま、何も実現できない死後の世界に入りたくないと、感覚的に思うのではないか。恐怖感をあおるのではないか。未来を奪われることを考えれば考えるほど、恐ろしくなる。「もう思い残すことはない」という言葉と共に穏やかに逝く人が珍しくないことは、ある程度それを証明していると考える。
 ダメだ。月並みで恐縮だが、やはり「死への恐怖心」を理解することは簡単では無い。考えてはみたものの、安直な試みをものの見事に跳ね返された衝撃を感じた。これもまた答えの無い問いかもしれないと、改めて姿勢を正す自分がいる。

 どなたかの訃報をクリスチャンの方に知らせたときに、「キリスト教では亡くなったとは言わず、『天に召された』と言うんですよ」と注意されたことがある。イエス様が三日間滞在されていた場所だ。復活。やはりまだ考えが追いつかない。心で感じるしか、信じるしか他に方法がないようにも思う。イエス様がなされた数多の奇跡を信じられるようになったように。

 やがて自分の存在が人々の記憶から消え去っていく寂しさも、ちょっと耐えがたい。

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