聞く力

投稿者: | 2021-04-06

 話を聞くという作業、これについて私は特に何も抵抗がない。人が話をしているときに黙って静かに耳を傾けることは当たり前で、むしろ聞き上手かもしれない。話し手が何を伝えようとしているのかに集中し、しっかり返答したいし、もしかして機転の利いたユーモアを交えて返せれば、少し笑いが取れるかもしれない。笑いはともかく、まずはしっかり聞かないことには何かしらのヒントにも気づけないし、「刺激を受けて新しいアイデアが生まれた」なんてことも起きにくくなってしまう。ちゃんと聞かないことは、自らチャンスを狭めることなる。
 と言っても、チャンスを拡げるために!などと考えているから、「聞く」わけではない。それは自然とできている。いつからできるようになったか覚えていないが、もはやそれが当たり前の習慣だ。

 この力は意見を交換する打ち合わせや会議の場面で非常に役立っていると実感している。私の戦法はこうだ。相手の話の中で、ポイントになる言葉や相手が大切そうに使っている表現を、私が話す順番の時に故意に入り混ぜなら、その上に自分の意見を乗せていく。そうすると、私の理解では、相手は自分の話をちゃんと聞いてくれていることに気づくと思う。自分の意見をただ滔々と述べるだけの人と違って、この人とは対立ではなくて「議論」ができると感じてくれるのではないだろうか。反対に私がそうされると嬉しいし、何となく安心感を抱くことができる。そういったある意味での“信頼関係“”ができたとき、話し合いを円滑に建設的に進めることができた経験が私にはたくさんある。今ではどの言葉を被せようかと、探す楽しみを感じながら話を聞くことさえある。もはや自然な癖だ。たとえ対立する立場に立った同士の会話でも、いや、返ってそういう緊迫した場面にこそ、有効な方法と信じている。

 話を聞けない人がいる。本当に一人になって、冷静に耳を傾けられない人たちがいる。病気なのでなければ、彼らは恐らく自分との向き合い方を知らない人たちなのだと思う。誰かの話を理解しようとする時、自分の経験と照らし合わせて考えなければ、つまり自分をしっかり見つめなければ、なかなかうまくいかない。理解できないことに対して拒否反応を示すのは、むしろ当然かもしれない。
 高校時代、運動会の日も修学旅行の日も、雨の日も雪の日も、必ず朝の礼拝から一日が始まった。先生方や講師、時には生徒の話にも耳を傾けた。そう言うと響きが良いが、実際には強制的に聞かされた。それがいつの間にか当たり前になっていった。そして1分か2分の本当に短い時間だったが、「祈る」という、目を閉じて自分に向き合う時間を毎日持った。それを三年間。否が応でも聞く力が鍛えられ、「一人になる」ことを感覚的に覚えていった。

 アンテナを張っておく、ということが本当に大切だと思う。何がヒントになるかなんて分からない。命が与えられ、今こうして生きていられることと全く同じこととして、身の回りで起こる事象や与えられる刺激になどについても、すっかり神さまからの賜物と考えられないだろうか。大嫌いなあの人の口から出て来る一言が、もしかしたら使命を決定づける一打になるかもしれない。
 捨てることは簡単だ。しかし持っていないものは捨てられない。一度手元に引き寄せて、品定めしよう。自分に必要なものかどうか検討してみよう。捨てるのはそれからでも全然遅くない。検討する行為そのものが自分の経験になっていく。恐らく、要らないものは何も無い。

  高校三年の時、説教をする方の立場に立ったことがあって、話した内容を今でも覚えていたりする。

コメントを残す

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください