品性

投稿者: | 2021-04-09

 「品がある」ということがあると思う。なかなか言葉で表現するのは難しいが、雰囲気なのか、オーラなのか、必ずしも“上品”である必要もないのだけれど、決して“下品”ではない部類に属する「イメージのようなもの」とでも言っておく。「品」、改めて難しい概念だ。
 私は「品」を大切に考えている。どうしてかと問われると、ちゃんと答えられない。私にとっての「品」はどうやって作られていったのだろう。プライドからくるものなのか、見聞きしてきたものの影響からか、はたまた生まれ持っての感覚なのか、判然としない。お金持ちかどうかは関係がない。私の感覚では、贅沢三昧の豪遊生活より、貧乏人の質素さの方がよっぽど品がある。その人その人に適した「品」があるというか、いずれにしても、おごらず騒がず謙虚であることは必要最低条件かなと思う。何か行動を起こすに当たり、どう動くべきかと考えるとき、私の中で「品」はそれを左右する一つの大きなファクターになっている。

 俗に言う「空気を読む、読めない」ということがある。「その場の空気を読んで、それに見合った行動や言動をする」とか「あの人は空気を読めない」、或いは「敢えて空気を読まずに自分の意見を主張する」という意味においてのこと。最近では空気に逆らって、つまり同調圧力から脱して意見を述べることが推奨される「空気」を、一般的に報道などから感じ取ることが多い。個人的な意見として、「敢えて読まずに」と言う場合は意図があってのことだと思うので、とても良いと思う。しかし「空気を感じられない」というのは、勉強不足というか、経験不足というか、配慮不足というか、ちょっとまた違う印象がある。品がないというか。「空気」をどう扱うかはその人次第で良いと思うが、頭から無視をしていいものではないと思っている。

 「自分らしく生きる」ということがあり、対極に「自分が人からどう見られるか」という、不安な心がある。良い人間に見られたい、尊敬されたい、人気者になりたい等々の欲求は個人差を伴って誰にでもある。そして自分の容姿や服装を含めた行動・言動によって他者にどのように思われるかは、たいていの人にとって大きな関心事だ。そんな中で誰にどう見られようとも、これはやり通す、主張する、引かないという内容がある。その内容そのものがまず自分らしさを示しているし、それをどう実現していくかの過程にも“らしさ”が現れる。極端に例を挙げれば、周りと整合性を保ちながら根気強く根回ししながら着地点を探るのか、盲目的に猪突猛進まっしぐらで体当たりするのか、そのほか人によって“らしさ”は様々だろう。「らしさ」はその人自身と言ってもいい。

 私は自分らしく生きたいと思う。それはどういうことかと考えたとき、「品」を考慮せざるを得ない。私が感じる「品性」である。それは恐らく全ての行為に渡って香り立つものなのかと思う。まず第一に「品」ではない。しかし何かを「こうしよう」と思い立ち、その方法は自分らしいか?それでいいのか?と検討したときに「品」の問題が顔を出す。空気を読むか、切り裂くかという判断にも品性のことは考える。自分らしさに付随するものと言えるかもしれない。
 「見栄」、「プライド」、「背伸び」の類いかもしれない。けれども私には「品」を考慮せずに無視して行動することは、現時点では難しい。それがキリスト教を信仰するに当たってどう影響するのか、もしくは邪魔をしてしまうものなのか、勉強していきたい。律法学者的な考えでなければ良いが。

 その辺が今の私の限界なのだろうか……。

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