老害

投稿者: | 2021-04-16

 私の仕事は、ざっくり言うと、企業や団体、学校等の「お客様」の為に、ビデオなどの宣伝媒体を制作することが主な内容だ。お客様から制作料を頂いて、お客様の為に最善を尽くす。その過程で私たち制作側からの意見や考え方、最近の傾向などをお客様に伝え、一緒に作り上げていくのだが、最終的な判断はお客様がする。制作側の思いは二の次三の次になり、それが当たり前のことだ。よっぽど私がこの世界で名を馳せるような存在になって、逆にお客様から「どうぞお好きに作って下さい」と依頼されるような立場に立てたのなら話は違ってくるが、私はそこを目指すつもりもない。つまり今まで仕事としてものを作るに当たり、常に誰かのための作品を作ってきた。

 人によって差はあると思うが、経験を重ねてくると段々生意気になってくる。私はそうだ。自分の思い通りに作ってみたくなる。芸術科気取り、職人気取りと捉えてもらって構わない。でもそれが本音だ。
 「経験を重ねる」という言い方は聞こえが良いが、「歳を取った」という言い方もあながち外れてはいない。立場をわきまえずに、お客様の話が聞けなくなる。特にお客様の担当の方が経験の少ない若い方だったりすると、「何を若造が生意気に!?こっちは何年やってると思ってるんだ!」と思ってしまう。実際そこまでの激情に駆られはしないが、とにかく非常に良くない。でもそれが本当に、正直に、私の中で起こっていることだ。このいらだちの原因は私の深いところにあって、無意識のうちに見たくないと思っている場所・部分なのかと思う。

 時代は流れ、人々の意識も変化し、その時その時に見合った表現や形態がある。宣伝なんかに携わる者は、その辺に敏感に気づいて、対応していかなければ務まらないと本当に思っている。そういう意味で、若い人には敵わない部分はある。同時にさらにもっと深刻な問題として、「今一度自分を顧みて反省し、新しい勉強を重ね、次なるタスクに挑む」という意気込みが自分の中から湧いてこないという事実がある。もう変化について行く感性が枯渇してしまったのか、もしくは体力的な問題なのか、これは自分で頑張ればどうにかできる類いの悩みではないように感じている。疲れたのだろうか。

 「変化について行くのではなく、変わらない確かなものをこの胸に留めておきたい」と心の底では思っていると思う。しかしそれでは売上にならない。生活ができない。その辺で私は苦しんでいるんだと思う。他人事のような表現で申し訳ないが、これが一番伝わると思う。
 もの作りへの情熱が冷めたとは捉えていない。表現の方法は色々あっていい。ビデオでも芝居でも文章でもスピーチでもデザインでも。ただその元になる思いや考え方を自分のオリジナルでやってみたい。誰からもとやかく言われることなく。そういう“我”が顔を出してきたということかと思う。この業界で20数年経験を積んできて、もしかしたらそれは当たり前の心境の変化で、誰もが行き当たる壁なのかもしれない。このわがままとどう付き合っていくか、ここ数年これで悩んでいることは確かだ。

 分かっている、若い人から学ぶ姿勢を失ってはいけない。

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