Teardrops

投稿者: | 2021-04-18

 感激・感動して涙するということがあると思う。しかし涙というものは残念ながら感動するときだけに表出するものではない。まさに悲しい時がそうであり、悔しい時にもこらえ切れずに、ということがしばしばあるかと思う。うれし涙なんかはいくら流してもいいと思うが、ポジティブな涙、ネガティブな涙、いずれにしても感極まって現れるものだと思う。心が動いていないのに泣けるのは、それは嘘か演技か、何かの間違いだと思う。
 随分と涙もろくなった。テレビのニュースで親が子供に食べ物を与えず、餓死させたなんて聞くと、一人の時はもう止まらなくなってしまう。真夏に小さな子供を車内に放置したとか、ちょっとあり得ないことが多すぎる。以前からこういうことは頻繁にあって、情報化が進んだから私たちの耳にも届くようになっただけのことなのだろうか。どうもそうとは思えない。子供に限らず、事故や火事などでも誰かが亡くなったと聞けば、泣かずとも随分と落ち込むようになった。自分のこととして考えられるようになった、いい傾向なのだろうか。分からない。些細なことでも心が動かされるように衰えてしまったということなのだろうか。

 一冊の本を読んでこれだけ何度も涙が流れたのは初めてだった。浅田次郎さんの「壬生義士伝(上・下)」を読了してのことだ。振り返ってみると笑いのない真面目な小説と言えると思う。全編を通して緊迫感があった。まぁ幕末の新選組を中心とした侍たちの話だから、そうなってしまうのは仕方がない。そうあるべきだった。最初はこの小説がどれだけ史実に忠実なのか興味があったが、読み終わった今、もうそれはどうでもよくなってしまった。たとえフィクションであったとしても、南部武士、吉村貫一郎の生きざまはこの胸に焼き付けた。嘘でも構わない。感動した。
 私は自分が日本人なんだなとつくづく感じた。主従関係とか年貢に苦しむ農民だとか、そういう話はあまり好きではなく、避けて通ってきた。アメリカンドリームみたいな話の方がスキっと晴れやかな気持ちになるし、景気がいいではないか。ところがここにきて、極貧の足軽侍という、自分の生まれ持った宿命に抗う侍にグッときてしまった。一人の男にとって、本当の「義」とは殿様のために命を捨てることではなく、家族を養うために生き抜くことだと悟った主人公は、相当にカッコよく素敵だった。誤解を恐れず、書く。「男の中の男」だった。

 私は自分で女性蔑視をする人間ではないと思っている。暴力も反対だ。そしてキリスト教の神さまとイエス様を信じている。しかし吉村貫一郎に感動してしまった今、私は自分が根っからの日本人だと認識する。これは果たして矛盾する現実なのだろうか。
 私は敬虔なフリをして嘘をついているだけなのだろうか。侍魂、日本人魂、大和魂。言い方は何でも構わないが、私の底に眠っているその「魂」は果たして、私の目指そうとしている「心」と相対してしまうものなのだろうか。所詮私には届かない「心」なのだろうか。いや、……。

 本の中である登場人物が言っていた。「御一新から50年が経ち、いい時代になったが、『男』がいなくなった」と。やはりあのような時代には、たとえ今日食べるお米がなくても、自分の子供を殺めるような親は、いなかったんじゃないかと、そう思う。

 ほんとに泣けちゃったんだよね~。

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