Complain

投稿者: | 2021-04-19

 私の出身高校では毎年秋に学年ごとで二泊三日の合宿行事を行っていた。実施する場所も企画内容も全く固定されていなく、毎年どこへ行くかは知らされていない。私たちの学年は1年次が学校の敷地内で、たしか男女あわせて15~20人くらいずつの小グループに分かれてのキャンプ。2年次がたしか7グループくらいに分かれて、それぞれが障がい者施設や農業訓練センターなどにお邪魔しての研修活動。3年次は全員で広島へ行き、平和について考えた。

 この行事では事前に生徒の中から実行委員を募り、彼らを中心に合宿の準備を進めていく。その1年次の準備期間中での出来事。生徒間でちょっとした“いざこざ”があった。
 この行事の期間だけクラスをバラバラにして、小グループに分かれるのだが、実行委員の分け方には「仲がいい者同士を離したい」という目的があったらしい。知らない者同士で二泊三日を過ごさせようとしたわけだ。分からないでもない。入学して半年が過ぎ高校生活にも少し慣れてきたところで、新しい人と出会い視野を広げて欲しいという、学年教師の願いも見え隠れする。
 争いごとを避けることに長けた私に言わせれば、暗黙の了解として実行委員も動けばいいのに、グループメンバーの発表後、理由を聞かれ、バカ正直に「仲のいい者同士は離した」と告げてしまった。説明もなしにそんなことを言われれば、「仲がいいことが悪いのか!」と反発したくなる気持ちはもっと理解できる。どちらも間違ってはいないと思うが、交わっていないというか、最初から敵対関係になってしまって、互いの気持ちが通じ合っていなかった。また悪いことに、実行委員は生真面目な“誤魔化せない”タイプの人間で、文句をつけに来たのが、ちょっとヤンチャなタイプだったから始末が悪かった。どこの社会でも見られる構図ではあった。
 「実行委員がそんなに偉いのか!」等とすごい剣幕で、やられっぱなしの実行委員が不憫になり、私は関係ない立場だったが、「まぁまぁまぁ」と割って入り、何とかその場は収まった。両者を引き離して、最後私が実行委員に「軽率だぞ!」と言ったときに、しょんぼりうつ向いていた姿が印象的だった。矢面に立った彼が一番偉かったことはみんなが知っている。彼は今、牧師になっている。

 文句を言うのはなんと大切なことだろう。敢えて「声」とか「意見」とは言わず、「文句」と書かせてもらう。「代案のない批判」と言い換えられるかもしれない。文句を言わなければ、何を考えているのか伝わらない。文句を言われなければ、よりいい方法は見つけにくい。そして自分の間違いに気づくことができない。文句は心に刺さるから。
 一つの事象を検証・研究するときは、必ず多面的な角度から考察しないと真実には迫れないと思う。複数人や大人数が関係する物事ならなおさらだ。自分の意見や思いだけではコントロールできない。ぜひ自分の意見は強く持ちたいと思う。しかしそれは検討を要する。揺さぶられた方がいい。全体の利益を考えるなら、文句を恐れていては成せない。検討した結果、得られた答えが正しいと信じられれば、それを使って思う存分立ち回ればいい。検討には「文句」が不可欠だ。

 文句を言い合っても、お互いの信頼が崩れない関係に憧れる。そのいう関係が複数に絡み合って成立している組織があったら、それは相当いい集団と言えるのではないか。「文句を言える集団」、それは「助けて」と救いを求め合える、頼り合える集団でもあるはずだ。

 文句をつけていた二人のうちの一人も、今、牧師に。

コメントを残す

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください