ぬくもり

投稿者: | 2021-04-21

 先日ついに拡大鏡を購入した。俗にいう虫眼鏡みたいなやつ。本当に近くが見えなくなってしまった。辞書の文字が小さくて読めない。インターネット上の辞書ページも併用しているが、やはり現物の辞書の“余計な”記述の良さには勝てない。調べたい言葉を探しながら、ついつい寄り道や浮気をしてしまう。「へぇ~、なるほど、そんな使い方もするんだ!?」等々、“余計な”記述は学びの楽しさを増長し、何故か温かみが感じられる。ただ虫眼鏡を目の前に持ちながら、顔と辞書との距離を近づけたり離したりしている姿は、傍から見たら滑稽だろうな~と苦笑いしている。

 インターネット上にはあらゆる情報があると言われている。検索すれば大抵は目的の「知りたいこと」にたどり着ける。非常に便利で私も多用している。国語の辞書を一つとってみても、あんなに分厚くて重いものを持ち歩くのは、誰もが敬遠したい。ましてや百科事典を一式持ち歩くなんてことは考えもしない。インターネットに繋がればそんな厄介なデカ物の運搬は無用で、ページをめくる手間も省け、無駄に労力を使わずに済む。
 だがしかし、そのコンピュータでの作業には“余計な”副産物はついてこない。必要なものに忠実に答えてくれはするが、それ以上でもそれ以下でもない。「無駄」「余計」「遊び」等を省いて、まさに機械的に「正解」を届けてくれる。素晴らしい、そしてつまらない。
 人間のなんと贅沢なことか。瞬時に正確に無駄なく答えを出してくれることに、不満があるようだ。コンピュータにしてみれば、たまっちゃもんじゃないだろう。もし意思があれば、「じゃあどうすりゃいいの?」って感じだと思う。そんなことはお構いなしに、現物の印刷物の価値が見直され始めているようだ。

 「辞書を持ち歩こう!」という機運が高まっているわけではない。新聞や雑誌など、印刷物の紙面上に散りばめられた、「制作者たちの知恵の欠片」が貴重なんだ、という認識が改めて共有され始めているそうだ。それは時に「ウンチク」であったり、エピソード等のこぼれ話や“つながり”話だったりと、メインのテーマからは少し離れた、スピンオフ的な内容の記述が再評価されているらしい。一言で言えば「遊びがある読み物」ということだ。
 やはり人間は完全な存在ではなく、隙間のない空間に閉じ込められると息苦しくなってしまう生きものなのだと思う。少し遊びがあるくらいでないと、心にゆとりが保てない。正解だけがすぐに返ってきても、寂しさを感じてしまう、か弱い存在だ。なんとも頼りない。印刷物がこれから本当に復活していくなら、それは「人間の弱さ」を証明する一例になるように思う。

 私が「人間とは~」などという書き出しで何かを書くのは、おこがましくて本当は良くないと思っている。けれども今日はちょっと「人間とはこうあって欲しい」という願いも込めて、敢えてこういう書き出しにさせてもらった。
 合理性だけを追求すればコンピュータ頼みでいいのだと思う。AIだってもっと良質に、例えば遊び心を持つようにさらに開発されるかもしれないし、そうなれば後世に機械的な社会を「文化」と呼ぶ日が来るのかもしれない。しかし、か弱い人間には、人肌のぬくもりが感じられる「無駄」が必要なんだと、私には思えてならない。

  辞書の、あの薄っぺらなページをめくる作業とかかる時間にもきっと意味がある。

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