私は“古い”のだろうか、打ち合わせや勉強会や相談事や、そういう本当に大切な話し合いは、膝と膝を交えながらではないが、顔を見ながら会話しないとダメだと思っている。伝わらないと決めつけている。しかしコロナだ。もう一年以上も私にとっての“命の絆”である、聖書研究会を中断している。緊急事態宣言が取り下げられればOKというのであれば、このまま我慢もできようが、普段の生活仕様に戻れるのは、「年単位」でまだまだ先のようだ。そこでZOOM開催を模索しようと思っている。そういう機会が訪れなったことが最大の要因なのだが、先述の頑固さも手伝って、私は未だZOOMを活用したことがない。というか、webカメラ等、必要なものが装備されているコンピュータを使っていないので、今すぐにはできない。ついに私も重い腰を上げるときが来たようだ。
ZOOMをやってみる前に気になっているのは、微妙なタイムラグだ。やはり会話は“間”が重要ではないだろうか。例えば、何かを問いかけた時に相手が少し考える“間”を置くと、状況によってその“間”は言葉以上に雄弁になる場合がある。時間の事だけではなく、微妙な表情の変化や、手元の動き、言いかけてやっぱり止める等の動作を含めて、その場で感じ取ることができる相手の雰囲気があると思う。それらがZOOMを通すことで僅かな時間差を伴って届くし、届けられるだろうから、私はそういう部分にも非常に気を遣って会話するので、微妙なニュアンスがちゃんと伝わり、伝わってくるかなという疑念は拭い去れない。まぁやってみれば分かるか。あと、画質の汚さも気になる。
もしこれが「使える」ということになると、考えてみると、利点は多い。細かいことは置いておいて、あくまでも余暇を利用しての勉強会なので、それぞれの本業に支障を来すことができない。加えて私が他のメンバーよりかなり遠方に住んでいるので、一堂に会するためのスケジュールの調整がなかなか難しい。これが一気に解消される。今まで一日中かけて行っていたのを二日間に分けたり、もしくは月一だったのを毎週1~2時間の固定開催にしたりと、ちょっとした夢は広がる。あぁ、そうできたらなんといいだろう。こんなことはコロナがなかったら、頑固さと固定観念ゆえに考えもしなかったと思う。
コロナを言い訳にして、私はちょっとサボっていたように思う。「収束するまでのちょっとした休憩だ」、くらいに簡単に考えていた。コロナ関連の医療に従事されている方々や、それこそ飲食店の経営者のように、本業にそれほど実害を被っているわけではないので、感度が鈍っているのかもしれない。この窮地を脱しようと頑張っている人たちは多いのだろう。失業者や倒産の数が増え続けている。コロナが収束した後、この社会の混乱をどう収束させていけばいいのかと考えると頭が重い。
コロナについて、神さまからのメッセージに耳を傾ける。なかなか聞こえてこない。けれども「会えなくなっていた愛する人たちと、これまで以上に時間を共有しなさい」というお導きは確かに賜った。
最悪、スマホさえあればできるらしい……。