Jekyll and Hyde

投稿者: | 2021-05-10

 特に何かあった訳でもなく、理由が見つからないんだけれども、何となく気分がすぐれない、落ち込みがちになってしまうことがある。そんなブルーな朝も毎日の神さまへのお祈りを通して何とか乗り越えて、前を向けるように努めている。しかしできることなら平常心と言うのだろうか、朝も昼も夜もいつも安定した穏やかな心持ちでいたいと願っている。私はどうしてこう、日によって気持ちに波ができてしまうのだろうか。

 ある冊子の中で「人間も自然の中の一部だから、晴れの日や雨の日があるように、人間も日々変化する」という主旨の文章に出会った。当たり前のことを言っていると言えばその通りだが、目から鱗が落ちる思いがした。しかし同時にその事実をそのまま受け入れられるかどうかは、私にとっては簡単ではないことに気づかされた。
 まず私は自然に逆らって生きてきたような気がする。いつも、照り付ける太陽に「暑すぎる」と文句を言い、降りしきる雨粒に傘をさして抵抗してきた。あたかも恵み多き大自然が自分の“敵”であるかのように、ずっと反抗してきたのだ。今さら同化しろと言われても、理屈は分かるが、にわかには心身ともに対応できそうにない。
 加えてまたもや私のプライド問題の登場だ。随分丸くなってきたとは感じるが、どこかでまだ「自分にできないことはない」と思っている節がある。「自分の心なんだから、自分でコントロールできないはずがない」と高を括っているようだ。いい意味で「諦める」ことを覚えなければ、自然へ向かって身を投げ出すことは難しいだろう。

 歳を重ねて、気づいていなかったこともない。自分ではどうしてみようもない部分が心の中にあって、プライドに拘り過ぎていると、本当はもっと大切にしたいと思っているものを見失ってしまう。だからここらで少し力を抜いて、身を委ねてみてはどうかと、薄々企ててはいた。だがなかなか実践できないでいるのが現状だ。
 お祈りするようになって、すなわち神さまと対話するようになって、自分を第三者的に見る視点が備わったように思う。「自分を冷静に分析する自分がいる」と言うか、もっと違う言い方をすれば、精神が落ち着いている時限定で、二重人格になったような気分だ。この冷静で安定している自分が出現するのは、大抵はお祈りの後のような気がする。あ!今こうして執筆している最中も現れているような感じがする。

 もしかしたら、そうなのかもしれない。そうでないと、こんな何をやってもダメなどうしようもない私が、これほど毎日ブログを書き続けられる訳がない。ネタを思い浮かべ続けられるはずがない。私にとってこのブログは、本当に「謎の偉業」なのだ。少なくとも神さまと向かい合おうと志す以前の私では、恐らく無理だったと確信に限りなく近い感じで思う。
 「二重人格」なのか、いわゆるスポーツで言うところの「『ZONE』に入った状態」なのか、それとも何かに憑依されたのか、分かる人がいれば教えて欲しいと思うが、自分ではない誰かが毎日キーボードを打っているような気がするのだ。間違いなくここには私しかいないのだが……。

 何か今日はちょっと恐い結末。

コメントを残す

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください