愛すべき自分

投稿者: | 2021-05-12

 仲良しグループの中だけでの付き合いでは、磨かれないのだと、自分を磨くことはできないのだと、日頃から思っている。私利私欲からではなく本当に必要だと思えば、たとえそれが相手にとって耳が痛いことだったとしても、勇気を出して告げて、お互いに高め合っていく関係を作っていくことができれば何と素敵なことだろう。もちろんそんな緊張しっぱなしの張り詰めた雰囲気を24時間保持しろ等と言っているのではなく、肝心なここぞと言う時は邪念を追い払って毅然と立ち振る舞うべきだと思う。

 実は私は「打たれ弱い」。理不尽なことがあるとカァーッと頭に血が上って、それも良くないのだが、表情に出てしまったり言い過ぎて後悔することが多い。反対に「それはおかしい!」と責められると恐らく必要以上にダメージを受けてしまう。つまり考え方や行動を否定されると悲しくなってしまう。「おかしくない、間違ってない」と100%思える時は平気なのだが、痛いところを突かれるというか、私の不注意があったかもしれない疑いを自分で感じた時は、非常に落ち込んでしまう。実はこの落ち込み方は自分でも手が付けられないほどで、立ち直るのに数日要することもある、やっかいな現象なのだ。

 すなわち冒頭で述べた「こうしたい」と思っていることを全く実践できていない。少し何か強く言われるとシュンとしてしまうのだ。実践する準備・心構えさえ整っていないと言わざるを得ない。そんなことでは平和を創造する一員にはなれない。情けない限りだ。
 だからこそ頑張らなければならないのだろう。そんな情けない私だからこそ、トライする、つまり自分の弱みに挑む価値があるのだろう。このように気づく時はいつも、やはり一日一日の過ごし方、取り組み方に鍵があるのだなと思う。自分の夢は何もカナダや遠い場所にあるのではなく、どこにいようとも毎日の生活の中にある。

 こんな回りくどい考え方をしなくても、普通に毅然と振る舞っているように見える人たちがいる。凄いな~と思う。そのような方たちと自分を比較して卑下する必要はないけれど、存在を認識して意識することは私にとっては大切なことに思える。いいところは真似しようと狙っている。
 仲良しグループの中に留まって安全な領域だけに顔を出している感覚はない。そこは勝負できていると思うのだが、抗う中でもう一つ殻を破れないような悔しい思いをしている。それは周りをよく見てより慎重に行動するだけでは破れず、やはりプライドなど私の心の中の問題なのだと思う。
 打たれ弱くて、情けなくて、悔しくて、落ち込んで、でも頑張ろうと思う自分は他の誰でもない私自身。ボチボチ行くしかない。

  結局、気が小さいんだよねー

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