Nightmare

投稿者: | 2021-05-18

 仕事でもプライベートでも、もう自分ではどうしようもできないような、いわゆる「窮地」に立たされた時にどう立ち振舞うかは、その人となりを表すことになるかと思う。一番苦しい時にどうするのか。もう謝っちゃうのか、解決策を探して抗うのか、さっさと逃げ隠れるのか、人になすりつけて言い訳するのか、もしくは誰かに丸投げしてみるか。窮地に立たされたという状況は、その時点ですでにある程度失敗した結果そうなっているのだろうから、「自分が失敗したときどうするか」と言い換えられるかもしれない。

 失敗したときは色々なことが頭の中を駆け巡る。どうしてそうなってしまったのかと原因を突き詰めていく。どんなに慎重にことを運んでいても、複数の人や会社などが絡んでいれば、不測の事態は起こり得る。分かっているからこそさらに細心の注意をもって事に当たるのだが、それでも人生に失敗はつきものだ。そんな時もある。そういう時にどう振舞うか。
 結論から言えば、やはり誠実に対応するしかないのだろう。窮地の場面で失敗した原因を探るのは、悔しい気持ちは分かるがほどほどにして、状況を周囲に説明し、知恵や助けを募る。プライドを忘れて恥も外聞もなく、とにかく「できるだけのこと」を尽くしてピンチからの脱出を試みる。そして神さまに委ねてひたすらに祈る。「神さまどうか、真実に生きる勇気をお支えください。」

 手前みそだが自分で成長したなと思うことは、以前であれば「神さまどうか助けてください」と祈っていたんだと思う。不躾にも「何でもいいからいい結果だけを頂戴くださいませ」みたいな感じだった。今は「頑張るから見守っていてください。あとはお任せします。」という感じ。そう思えるようになった自分をとても誇らしく思っている。現時点では自然とそう祈ることができる自分を“いい”と思っている。いい意味で諦められていると思う。

 現実は厳しい。本当に窮地に立たされると、心配で真夜中にガバっと目が覚めてしまったりする。最悪の気分だ。しかし失敗は失敗だろうが、確かに死にたくなるような思いもしたことはあったが、幸せなことに生命を賭けなければならないような、そんな環境の中には生きていない。
 強い責任感を持つことは尊い行為だと思う。ストレスを伴うが、人や何かに対して責任を負うということはそのまま生きがいに通ずる。だが、被害妄想的で過剰な責任感や思い込みの“勘違い”責任感もある。私は感情に流されやすい危険なタイプだ。自分が思ったことに突き進みがちな傾向にある。その自らの罠にハマることなく、勘違いせず、もうひとつ自分を取り巻く環境を客観的に見る第三者的な視点をもっと養っていきたい。そうすることで“できるだけ”の手段、引き出しが増えていくように思う。生きている限り失敗が繰り返されることを防げないのであれば、対応策を強化していこうとする流れは必然かもしれない。
 自分の判断、意見を持つことはこの上なく大切だが、感情に流されて、人と人の間で生きていることを忘れてはならない。神さまはそんなことは私に求めていないと思う。苦難なときにあっても毅然と真実を追い求める人になりたい。

 過剰な責任感は迷惑。

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