物心ついてからの私に人生において、いや物心つく前からなのかもしれないが、自分から何かしようと志してトライした結果、うまくいったことがあまりない。分かりやすいところで言うと、高校受験に失敗し滑り止めの高校へ進学。大学受験に失敗し一浪するも結局志望校には入れず、滑り止めの大学へ進学。カナダへ移住を企てるも、結局は強制送還され帰国。テレビ局をはじめ地元の映像業界に職を求めるも全く相手にされず、諦める間際でようやく小さな会社に拾われる。独立して会社設立後もあらゆる営業企画がうまくいかず、ある程度食べられるようになるまでは相当に苦労した。今も100%安定しているわけではない。
思えばことごとく失敗の後に与えられた場所で生きてきた。自分が渇望した空間とは違う世界で人生を潜り抜けてきた。そういう運命だったのだと今は思える。これほど思った通りいかないのであれば、何か新しいことをしようと仕掛けなければいいのではないかと思ってしまう。「どうせ俺なんか、何をやったってうまくいくわけがない!」等とふて腐れているわけではない。その時々に与えられた世界で、私はいつも幸せだった。その当時は気づいていなかったが、やはり幸せだったんだろうと思う。そうでなければ今こうして元気に生きていられるわけがない。神さまが私に必要な場所をいつも用意してくださった。だからそもそも自分で求めなくてもいいのではないかと考えてしまう。
キリスト教的には極めて月並みだが、そういう考え方は間違っているのだろう。求めたからこそ生きる場所が与えられたのだと思う。失敗したからこそ神さまが憐れんでくださった。勇気を持って進んだからこそ、道が開けた。そう思う。
そしてこうして振り返っていてもう一つのことに気づく。なるほど私は受験に失敗したり強制送還されたりと目に見える失敗を繰り返してきた。心のどこかで私はその一つ一つの失敗の理由を他の誰かのせいにしてこなかっただろうか。「私はこんなにかわいそうなんです。皆さん、私に同情してください」という甘えの気持ちがなかっただろうか。あった。残念ながら、あった。
その一つ一つの試練に立ち向かう中で、もうこれ以上できないという程に頑張っただろうか。「これでダメだったら死んでもいい」くらいの覚悟をもって取り組んだだろうか。残念ながら、そこまでは頑張らなかった。すなわち私の失敗の数々は、失敗するべくして失敗した当然の結果だったのだ。その私の弱さを誰にも知られたくない。知られるのが恐ろしくて悲劇の主人公を恐らく今この瞬間も装っている。それが私の真実だ。もしかしたらそういう自分に気づいていて、見ないように逃げていたのかもしれない。無意識のうちに。
人生はかくも厳しい。甘えが許されず、限界までの頑張りが要求される。私が失敗の後に放つ言葉はすべて、自分の弱さに対する言い訳でしかなかった。他の誰でもない“私”が私の人生をそういうものにしている。みんなの人生がそうであるべきだとは思っていない。やはり自分がこの時点までで培った感覚の中からしか物は言えない。そしてこの感覚も明日はまた違うものに生まれ変わるかもしれない。変わることを恐れず自分を見つめながら掘り下げていく作業を止めてはならない。いつかきっと声は聞こえる。
覚悟のない私を神さまは見捨てずにいてくださる。感謝。